信徒分布
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キリスト教徒が人口の過半数を占める国で、プロテスタントが他のキリスト教諸宗派より多い国は、ドイツ、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、エストニア、イギリス、ケニア、ガーナ、ナイジェリア、リベリア、シエラレオネ、マラウイ、コンゴ共和国、ザンビア、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビア、エスワティニ、南アフリカ共和国、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、フィジー、トンガ、ソロモン諸島、バヌアツ、アメリカ合衆国、ジャマイカなどとなっている。ただし、宗教改革発祥の地であるドイツはカトリックとほぼ拮抗した状況となっている。中国は人口に占めるキリスト教徒の割合は5%程度だが、絶対数で見れば多く、そのうちプロテスタントが8割以上を占める。キリスト教徒人口の割合が3割と、アジアの中では比較的高い韓国は、うち6割以上がプロテスタントとなっている。日本のキリスト教徒は、半数近くの約90万人がプロテスタントとされている。
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信徒分布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 09:06 UTC 版)
シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数を超えていると言われる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派(五イマーム派)はイエメンで主流である。 シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派であった。ただし、現在のイラン、アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝が十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗し、そのまま根付いたためである。 21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制は1979年のイラン革命以降イスラム共和制をとっており、十二イマーム派を国教としている。シーア派の高位聖職者がイランの最高指導者として国家元首となっているため、シーア派の影響力は非常に強い。 イランに次いでシーア派の割合が高い国はイラク、アゼルバイジャン、バーレーンの3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。イラクにおいてはナジャフやカルバラーといったシーア派聖地の存在する国土の南部にシーア派が集住している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。イラク戦争によるバアス党政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、ヌーリー・マーリキーが首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派など他の宗派との関係が悪化した。 バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。シーア派はスンナ派に比べ就職や収入などにおいて不利な条件に置かれており、このため1990年代には暴動が多発した。2002年にバーレーンで議会が再設置されシーア派にも議会参加への道が開かれるとこの対立は一時沈静化したものの、バーレーンの王権はいまだ強く、格差などにも改善の動きが見られないことから不満は蓄積していき、2011年のアラブの春においてはシーア派が中心となって2011年バーレーン騒乱が勃発し、警察と衝突して死者を出す事態となった。 レバノンでは政治的理由から統計はないものの、シーア派はキリスト教マロン派およびイスラム教スンニ派とともに一大勢力となっており、ヒズボラという政治・武装組織を有している。レバノン内戦以前は国会の全99議席中19議席、内戦後の1992年からは128議席中27議席がシーア派に割り当てられていた。また、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。 サウジアラビアは厳格なスンナ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが、ペルシャ湾岸にある東部州のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。ワッハーブ派はシーア派を敵視する政策を伝統的に続けており、このためサウジアラビアのシーア派には不満がたまったままの状態が続いている。1979年にはイラン革命の影響を受けて東部州のカティーフでアーシューラーの際に暴動が起きた。その後、徐々にサウジアラビア政府はシーア派に宥和姿勢を見せるようになり、2003年にはシーア派に対する差別の撤廃を訴える建白書が皇太子に渡されている。 イエメンにおいては人口の40%ほどがシーア派であるとされているが、このほとんどはザイド派に属する。イエメンのザイド派は、同派のイマームが897年にイエメンに本拠を置いて以降、歴史的にこの地域を長く支配してきており、1918年にはイマームによってイエメン王国が同国の北部を領域として成立した。この王国は1962年に打倒されてイエメン・アラブ共和国となるものの、以後もイエメン北部においてザイド派は強い影響力を保持し続けた。2011年イエメン騒乱後の混乱に乗じて最北部のサアダ県に成立したザイド派の武装組織であるフーシは2014年に首都サナアへと侵攻し、2015年2月にはクーデターを起こしてハーディー暫定大統領を追放して権力を握った。2016年にはフーシはイエメン北部(旧北イエメン)の大部分を掌握し、南部(旧南イエメン)を支配するハーディー暫定大統領派と対峙する状況となっている。 シリアにおいてシーア派は13%ほどを占めるとされるが、その大部分を占めるのはアラウィー派である。ただしアラウィー派はシーア派主流派と比べてもかなり教義に差があり、一部ではシーア派とみなされない場合がある。アラウィー派の多くはシリアの海岸地方、特にラタキア県に集中しており、フランス委任統治領シリア時代にはこの地域はアラウィー派を中心とするラタキア国という自治地域となっていた。シリアが独立するとその実権は多数派のスンニ派が握り、アラウィー派は不利な立場に追い込まれたが、1970年にアラウィー派の軍人であるハーフィズ・アル=アサドが権力を握るとアラウィー派は優遇されるようになった。2000年にハーフィズが死去し次男のバッシャール・アル=アサドが政権を継いだのちもこの構図は継続したが、支配されている多数派のスンナ派の不満は高まり、2011年にシリア内戦が勃発する要因となった。シリア内戦においては勢力図はめまぐるしく変動を続けているものの、ラタキア県を中心とするシーア派地域のほとんどはアサド政権に忠誠を尽くしており、シリア政府の強固な地盤となっている。
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信徒分布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:29 UTC 版)
「オーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派」の記事における「信徒分布」の解説
ルター派福音主義教会信徒の住民構成比が高い地域はブルゲンラント州 (とりわけ、オーバーヴァルト郡)、ケルンテン州 (10.3 %)、シュタイアーマルク州に51.005人(4,3 %)の信徒がいるが、リーツェン郡ラムサウ・アム・ダッハシュタインは住民の過半数(78,1 %)が信徒である。オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地であるザルツカンマーグートにも多くの福音主義教会信徒が暮らしている。オーストリア全体では国民の3.5 %が福音主義教会信徒である。 以下の地方自治体では福音主義教会信徒が過半数を占めている。 ケルンテン州:ヘルマゴール郡 ギチュタール Gitschtal, シュピッタール・アン・デア・ドラウ郡 ヴァイセンゼー Weissensee , フィラッハ=ラント郡 シュトッケンボイ Stockenboi, フィラッハ=ラント郡 フレザッハ Fresach, シュピッタール・アン・デア・ドラウ郡 トレベジング Trebesing, フィラッハ=ラント郡 アフリッツ・アム・ゼー Afritz am See, フィラッハ=ラント郡 アリアハ Arriach, フィラッハ=ラント郡 フェルト・アム・ゼー Feld am See , シュタイアーマルク州:リーツェン郡ラムサウ・アム・ダッハシュタイン (78,1 %)Ramsau am Dachstein, オーバーエスターライヒ州:グムンデン郡 ゴーザウ (71 %)Gosau-隠れ新教徒の歴史で有名 ブルゲンラント州:オーバーヴァルト郡 ベルンシュタイン・イム・ブルゲンラント Bernstein im Burgenland, イェンナースドルフ郡 エルテンドルフ Eltendorf, ノイジードル・アム・ゼー郡 ゴルス Gols, マッテルスブルク郡 ロイパースバハ・イム・ブルゲンラント Loipersbach im Burgenland, オーバーヴァルト郡 マルクト・アルハウ Markt Allhau, アイゼンシュタット=ウムゲーブング郡 メルビッシュ・アム・ゼー Mörbisch am See, オーバーヴァルト郡 オーバーシュッツェン Oberschützen, オーバーヴァルト郡 マリーアスドルフ Mariasdorf, オーバーヴァルト郡 リードリングスドルフ Riedlingsdorf, オーバーヴァルト郡 ヴィースフレック Wiesfleck, マッテルスブルク郡 ペッテルスドルフ Pöttelsdorf ,
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信徒分布
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 20:15 UTC 版)
21世紀初頭において、ユダヤ教徒が多数を占めている国家はイスラエル一国のみであり、2014年においては人口の約75%がユダヤ教徒によって占められている。これはイスラエルがもともと19世紀末以降に盛んになったパレスチナにユダヤ民族の故郷を再建しようとする運動、いわゆるシオニズムの結果として生まれた国家であり、ユダヤ教徒・ユダヤ人の祖国として建設されたことに由来する。このために、1920年代以降パレスチナにはユダヤ教徒が大挙移民として流入するようになり、1948年のイスラエル独立後にこの流れはさらに加速した。イスラエル独立とそれに続く第一次中東戦争によって、イスラエルとアラブ諸国との関係が極度に悪化し、それまでアラブ諸国内においてイスラム教徒と共存していたユダヤ教徒のほとんどがイスラエルへと移民したからである。この移民の波は1948年から1951年までの間に最盛期を迎え、その後も継続した。イスラエル政府は1950年に帰還法を制定し、国外のユダヤ教徒がイスラエルへと移民することを認めた。こうしたことからイスラエルにおいてユダヤ教徒は人口のみならず文化的にも経済的にも主流派となっている。しかし継続するユダヤ教徒移民の波にもかかわらず、イスラエルにおけるユダヤ教徒の割合は減少傾向にある。 イスラエルは宗教の自由を認めており、イスラム教徒などユダヤ教以外の宗教も信仰の自由は保障されているが、ユダヤ教のイスラエル国家に対する影響力は強く、政治と宗教の関係に関しては同国内で激しい論争がある。各教派の自立性も高く、超正統派に至ってはイスラエルのユダヤ人に義務として課せられている兵役が免除されているほどだったが、2014年にイスラエルのクネセトで超正統派にも兵役の義務を課す法案が可決され、2017年より超正統派にも兵役が課せられることとなった。イスラエルのユダヤ教徒は多くの教派に分立しており、厳格に戒律を守るものが約20%、ある程度戒律を守っているものが60%、ほとんど戒律を気にしないものが20%となっている。いくつかの教派は政界に進出してある程度の政治的発言力を有している。 それ以外の国家においてユダヤ教徒の割合が2%を超える国家は存在しないが、歴史的な事情からヨーロッパには古くからユダヤ人のコミュニティが存在し、現代においても各国ごとに数万人から数十万人のユダヤ教徒が存在する。新大陸の発見以降、ヨーロッパから移民の押し寄せた南北アメリカ大陸においても事情は同じで、多くの国にユダヤ教徒のコミュニティは存在する。特にユダヤ教徒の数が多いのはアメリカ合衆国で、統計によって数値が異なるもののおそらくイスラエルとほぼ同じかやや多い程度のユダヤ教徒が存在すると推定されている。
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