日本のキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 17:17 UTC 版)
1932年(昭和7年)5月5日に、上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝という偶像崇拝行為への拒否を公然化したため、「カトリック、否、全キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである」と非難された上智大生靖国神社参拝拒否事件が起き、信者たちの信仰活動は動揺した。そのため信仰よりも教会防衛を優先した当時のカトリック教会指導層は「祖国に対する信者のつとめ」を出し、神社参拝を容認した。これらの偶像崇拝と宗教弾圧への動揺は今日では自己批判されている。 プロテスタントでも日本基督教団などエキュメニカル派の一部は他宗教に対して比較的寛容であり、戦前より神社参拝、宮城遥拝、国民儀礼、御真影敬礼、焼香などの行為を行っていたが、戦前の美濃ミッションや中田重治監督指導時のホーリネス、戦後の福音派などは、これらの行為が聖書に反する偶像崇拝であるとして、これらの行為を禁じていた。 日本キリスト改革派教会の常葉隆興は日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった」とした。また日本キリスト改革派は1951年の第6回大会で「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない。」と決議した。 中央神学校のチャップマン教授は、日本の教会が神社参拝に対して明確な態度を取れなかったのは、旧約聖書の知識を欠いていたからだと指摘した。また、日本の教会は自由主義神学の高等批評によって信仰が骨抜きにされており、植村神学が簡易信条主義であったことから、異教の偶像崇拝に対して抵抗する力を持たなかったと指摘する者もいる。 福音派など聖書信仰の教会は1959年11月18日の日本宣教百年記念聖書信仰運動大会において、偶像崇拝の罪を、神の御前に悔い改め、告白した。「我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦国民生活的にも、一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する」
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