イスラエル独立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 01:39 UTC 版)
第一次中東戦争後、スデ・ドブ空港は本格的に空軍基地としての運用が始まり、また民間航空も再開された。当初は国内線のみで、一人の旅客をパイパー カブで輸送するという小規模なものが多かった。その後、より大きな航空機を使用したイスラエル国内の各空港への定期便が就航し、南北方向の滑走路が増設された。 1960年になり、スデ・ドブ空港の離着陸数が減少したため、テルアビブ市はスデ・ドブ空港を北に移動させ、この場所を住宅地に転用する事を計画した。しかし当局の委員会は調査の結果適切な場所が無い事などからこれを許可せず、代わりに空港機能そのものをロッド空港(現在のベン・グリオン国際空港)に移転させ、テルアビブとロッド間の道路交通を整備するという代案を出した。しかしこの代案にはイスラエル国防軍が反対した。 1968年に再度検討委員会が立ち上げられ、スデ・ドブ空港の古い方の滑走路(東西方向)を閉鎖し、面積を縮小するという案が出された。この改装案により、空港のすぐ東側まで宅地開発が可能となるわけである。委員会はまた、新たに海上部分に新滑走路を増設する案も立てていた。その後この案の通り、東西の滑走路は閉鎖され、空港の東には高層マンションが建設された。一方、海上への新たな滑走路建設は、予算の関係から見送られた。 スデ・ドブ空港近くに新たに開発された住宅地の住民は、ほどなく航空機の騒音に悩まされる事になり、発着回数の削減や、空港の移転を希望するようになった。その一方で、イスラエルの空港当局は、ロッド空港の過密状態を解消するため小型機を使用する国内線を中心にスデ・ドブ空港に振り分けを行い、スデ・ドブ空港の発着回数はかえって増加していった。以前頓挫した海上への滑走路移設も再度検討されたが、コスト高により実現されなかった。この騒音問題・移設問題は、1970年代~80年代を通じ、周辺住民、テルアビブ市、イスラエル空港庁(英語版)にとっての大きな懸案事項となった。 1990年代に入ると、ソ連の崩壊による移民の増加やハイテクブームによる経済成長などを背景に、テルアビブ周辺での航空機発着回数は更に増加した。これにより移設計画が再度検討される事となった。沖合いに人工島を建設して空港を移設する計画もあるが未確定で、現在のところ、スデ・ドブ空港を閉鎖した場合には、民間空港はベン・グリオン国際空港に、空軍部隊はパルマヒム空軍基地にそれぞれ移転する、という案となっている。またこれに先立ちベン・グリオン国際空港のキャパシティー改善の為、従来ベン・グリオン国際空港を拠点としていた空軍部隊の、南部のネバティム空軍基地へ移転も既に行なわれている。 現在のスデ・ドブ空港には、ハイファやエイラート、オブダへの国内定期路線の他、1997年ごろからは小規模な国際路線も存在する(そのほとんどが、キプロスもしくはその周辺への便である)。民間航空の発着回数はここ10年程は年間3万~3.5万回程度であるが、残り4割を占める空軍機の発着を含めると5万回以上となっている。2つの旅客ターミナル、7つのチェックインカウンター、45箇所の駐機場があり、年間60~70万人程度の利用者数(民間航空)がある。
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