イスラエル石柱(メルエンプタハ碑文)の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 09:00 UTC 版)
「フリンダーズ・ピートリー」の記事における「イスラエル石柱(メルエンプタハ碑文)の発見」の解説
1896年初め、ピートリーらはルクソールの神殿群の一画の発掘を開始した。その神殿複合施設はアメンホテプ3世の建てた神殿の北に位置している。元々その神殿はそこら中に散らばっている石にアメンホテプ3世の名が刻まれていたため、アメンホテプ3世の建てたものとされていた。しかし、1人のファラオが隣接して2つも神殿を建てるだろうか、という疑問があった。発掘を開始して間もなく、ピートリーはその疑問の答えを探し当てた。この神殿はラムセス2世の息子メルエンプタハが、隣のアメンホテプ3世の神殿に使われていた石を使って建てたものだった。神殿の基礎から横たわるジャッカルの石像の破片が見つかったが、おそらくアメンホテプ3世の神殿の正面のアプローチに設置されていたものと見られる。メルエンプタハ本人の像や2つの素晴らしい石碑も見つかった。どちらもアメンホテプ3世の神殿で使われていた石像の裏面を使ったもので、元の像の顔が裏面にあった。1つはヌビア人やシリア人と戦うアメンホテプ3世を彫刻したもので、もう1つは高さ10フィート以上の黒い花崗岩でできた石碑である。元の碑文はアメンホテプ3世の建築業績を称えたもので、それが建っていた神殿の壮麗さを書き連ねている。一方それを裏返すとメルエンプタハがリビア人や海の民に勝利した事績が書かれていた。ドイツの言語学者ヴィルヘルム・シュピーゲルベルク(ドイツ語版)がそれを解読したが、碑文の最後の方でメルエンプタハが勝利したという民族名らしき固有名詞 "I.si.ri.ar?" でつまってしまった。ピートリーはそれが「イスラエル」だと直観し、シュピーゲルベルクもその解釈に同意した。これは「イスラエル」という言葉が出てくる最古の金石文であり、イギリスでも大きなニュースとして扱われた。1902年王立協会フェロー選出。
※この「イスラエル石柱(メルエンプタハ碑文)の発見」の解説は、「フリンダーズ・ピートリー」の解説の一部です。
「イスラエル石柱(メルエンプタハ碑文)の発見」を含む「フリンダーズ・ピートリー」の記事については、「フリンダーズ・ピートリー」の概要を参照ください。
- イスラエル石柱の発見のページへのリンク