禁教令の強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:22 UTC 版)
大八は獄中で厳しい拷問に耐えかね、家康の身辺にも多数のキリシタンが潜伏していることを自白していた。この頃のキリシタン大名には、宣教師と結んで領地内の寺社の破壊や僧への冒涜行為に及ぶ者がおり、家康が亡くなると、幕府は貿易の実利よりも弊害を問題視した。また、大八事件が起きたそもそもの要因はキリスト教への寛容さに問題があったためと考え、さらに平山常陳事件により幕府の不信感は増大し、公然とキリスト教の弾圧に乗り出すようになる(元和8年-1622年「元和の大殉教」など)。江戸市中に潜伏し活動していた原胤信も元和9年(1623年)には捕縛されて火刑に処された。 なお、有馬はしばらく天領となった後に入った松倉重政の暗愚な失政が島原の乱(1637年)を決起させ、幕府のキリスト禁教を決定的にさせている。乱後の1640年に通商再開を願って来日したポルトガル人は全員死罪となっている。
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