禁教と南蛮貿易の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:42 UTC 版)
ポルトガルや、のちに参加したスペインによる布教によって日本のキリスト教徒が増加する。その数は約37万人から50万人という説もあり、当時の日本列島の人口の3%から4%に達して幕府の警戒を招いた。日本にとって、ポルトガル船がマカオからもたらす中国産の生糸は必要不可欠だったため、幕府はポルトガルの貿易と布教を分離させようと務めた。幕府はマカオの政庁に対して宣教師の日本への渡航禁止を要求し、老中連署下知状を長崎奉行に下す。下知状の内容は、(1)奉書船以外の海外渡航禁止、(2)海外在住の日本人帰国禁止、(3)キリシタン禁制の強化、(4)長崎の商売仕法の限定、(5)外国船の取り扱い、(6)長崎以外で取り扱う生糸価格は長崎に準じる等であった。 1634年には、パオロ・ドス・サントス事件が起きる。サントスは日本人司祭であり、キリシタンの国外追放によって長崎からマカオに移住していた。幕府はマカオ商船による司祭の書状の運搬を禁じていたが、長崎のマカオ商船でサントスの書状が発見される。これに関連して、長崎奉行だった竹中重義の密貿易も発覚した。この事件によって、マカオが禁教後にも密かに布教を支援していたことや、長崎の腐敗が明らかとなり、幕府はマカオとの断交を本格的に検討する。 長崎にはポルトガル人の管理のために出島が建設されて、長崎市内のポルトガル人が収容された。島原の乱が起きた後、禁教をより徹底させる観点から、幕府はポルトガルとの断交を検討した。幕閣は、ポルトガルに代わる取り引き相手として、オランダ商館長のフランソワ・カロンと対話をして、オランダの植民地である台湾経由でも、中国や東南アジアの物資を確保できることを確認する。幕府は長崎奉行と全国の大名に対して、ポルトガル船の来航を禁止する第5次鎖国令を発布して、ポルトガル人を追放した。マカオでは日本に対する負債を返済すれば貿易が再開できると考えて、負債を返済する銀を持った貿易再開の嘆願使節を派遣した。しかし、幕府の断交理由は負債ではなく禁教であるため、使節団は下級船員をのぞく61名が処刑されて送り返され、貿易は再開されなかった。マカオ市では貿易断絶の救済をポルトガル領インド政府に求めたが、マカオはポルトガル領インドの管轄外で自治を行なっていたという理由で救済はされなかった。その結果、南蛮貿易は終了した。
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