禁教令と寺請制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 11:45 UTC 版)
詳細は「禁教令」および「寺請制度」を参照 江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不施不受派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる。 これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年(万治2年)や1662年(寛文2年)の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった。 もっとも、寺請制度は世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で受け入れられた制度であったとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域に江戸時代存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として定着していったとみられている。
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