キリシタンの発覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 01:57 UTC 版)
1805年(文化2年)3月に大江村、﨑津村、今富村、高浜村(天草下島西目筋の村々)に対して検挙がおこなわれ、5200人にキリシタンの嫌疑がかけられたが、村民はキリシタンであることを否定した。 村社会の中でキリシタン探索を主導したのは今富村(天草市河浦町)の庄屋・上田演五右衛門(うえだ えんごえもん)であった。享和元年(1801年)、今富村の庄屋・大崎吉五郎が死亡した後、同年9月に演五右衛門の実兄で高浜村の庄屋を務める上田宜珍(うえだ ぎちん)が今富村の庄屋を兼帯し、演五右衛門が今富村の庄屋に就任したのは翌2年12月だった。これまで今富村の庄屋は大崎氏が務めていたが、吉五郎の子・幾太郎がまだ幼少だったため演五右衛門が庄屋となった。しかし、この庄屋交代は「異宗」の探索を進めようとする島原藩の意向によるもので、演五右衛門は村内を探索してその結果を詳しく島原藩に報告した。 同時期に、長崎奉行から長崎町年行事の末次忠助を通じて島原藩用達商人・島原屋早太(はやた)に問い合わせがあったようだという噂がもたらされたことで、奉行の肥田頼常と成瀬正定が天草の「異宗」について興味を示していることを島原藩は知る。奉行の方から「異宗」問題を指摘され、仕置不行届をとがめられる前に、島原藩は文化元年(1804年)10月に天草の「異宗」の存在を認めて、今後の吟味方針について幕府に伺いを立てている。
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