長崎奉行としての経歴とは? わかりやすく解説

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長崎奉行としての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 02:40 UTC 版)

長谷川藤正」の記事における「長崎奉行としての経歴」の解説

慶長19年1614年)、伯父長谷川藤広堺奉行転出した後、長崎奉行就任正の就任広の推薦よるものであったという。 平戸オランダ商館であったレオナルド・キャンプスは、正を「将軍買物掛」と形容し(『平戸オランダ商館日記』)、「平戸長崎、その他日本のこの地方のいずこへももたらされる総て貨物管理する首席奉行」とも言われた(『平戸イギリス商館日記』)。鎖国体制成立以前は、正は朱印船貿易家として海外貿易にも従事した在任中には長崎代官村山等安処刑され末次政直平蔵)がその後となったキリシタン禁教に際しては、末次政直協力弾圧行ない、「有馬大村地方、それに長崎の町は長谷川権六苛政にあったと言われた(レオン・パジェス日本切支丹宗門史』)。宗門人別帳作成キリシタン捜索行ない光永寺晧台寺大音寺などの建設がなされ、末次政直とともに諏訪神社再興するまた、日本残留した神父かくまったり、信徒会合開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることを禁じた元和6年1620年)にはミゼリコルディア(慈悲兄弟会)の天主堂や、長崎教会所属の7つ病院破却キリシタン墓地暴き信徒遺骨市外投棄させた。 江戸で将軍徳川秀忠からキリシタンへ弾圧督励された正は、元和8年1622年7月キリシタン平山常陳と彼の船で密入国図った聖アウグスチノ修道会ペドロ・デ・スニガ (Pedro de Zuñiga) とドミニコ会ルイス・フロレス (Luis Flores) の2人神父、それに船員達を長崎西坂の地で火刑斬罪処した平山常陳事件)。同年8月神父9人・修道士13人、指導的信徒33人の計55人を処刑した元和の大殉教)。この大殉教処刑されカルロ・スピノラ神父たちが収容されていた鈴田の公儀牢は、正の命令により大村氏によって元和5年1619年8月新築されたものである寛永2年1625年)には、ポルトガル船長乗船者名簿提出命じ未登録者の乗下船マカオからの宣教師物品積み下ろし禁じ来航ポルトガル人宿泊先も非キリシタンの家に制限した。翌寛永3年1626年)、来航商船対し積み荷検査とその目録作成命じ教会関係物品がないか調べたマカオ当局は、日本貿易維持のため正の勧告に従わざるを得ず、各修道会在日宣教師への書翰物品送付禁じ宣教師渡航自粛求めた寛永3年1626年)、長崎奉行辞任

※この「長崎奉行としての経歴」の解説は、「長谷川藤正」の解説の一部です。
「長崎奉行としての経歴」を含む「長谷川藤正」の記事については、「長谷川藤正」の概要を参照ください。

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