長崎奉行との関わり
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長崎奉行は、在任期間はその多くは数年であり、長崎在勤期間は隔年で1年ずつ。しかも奉行の配下として働く与力・同心などは数十人にすぎないため、奉行が単独で長崎の町の現状や貿易の仕組みを理解して任務を遂行するのは、困難であった。そのため、長崎土着の役人であり貿易業務を知り尽くしている町年寄達の協力は不可欠であった。町年寄の専断は許されず、その職務には奉行所の許可が必要だったが、許可が下りないということはほとんどなかった。 また、長崎に新任の奉行が着任する際には、年番町年寄が地役人の代表として日見峠に出向き、奉行の一行が峠で小憩を取る時にその到着を祝う。 随筆『翁草』には、長崎奉行は交易のことのみで、その他のことは枝葉の如く考え、町方の行政は町年寄に全てを任せたため、町年寄の専横が多かったと書かれている。しかし、貿易業務や行政だけでなく、長崎を見舞う問題にも奉行と町年寄は連携して対処してきた。島原の乱が勃発した時、長崎の警固を大村藩に要請したのは町年寄であった。また、享保17年(1732年)の蝗害による西国の大飢饉に際して、当時の長崎奉行大森山城守時長は、商人が買い占めている米を調べてそれを確保し、また大坂や下関等の諸国に飛脚を送り長崎に米穀を廻送するように町年寄に命じた。この時の大森山城守の措置により、長崎は十分な食料の確保が出来、餓死者は1人も出なかったという。 しかし、長崎における海外貿易の重要性が増すにつれ、長崎の町の行政に不可欠な町年寄以下の町役人を幕府の機構に組み入れるための様々な改革が行われるようになった。長崎における地下人の司法権が、町年寄から長崎奉行に移管されたのは、海舶互市新例が発布された正徳5年(1715年)からであった。 萩原伯耆守美雅は、長崎会所の中で素行が悪い者や怠慢な者は免職にして役人を削減し、また経費の削減や役人の不正を防止するようにという指示を出している。その目的は、町年寄の統率力を強化し、地下役人の腐敗・怠慢を無くして貿易業務を円滑化し、不正な資金が地下人達へ流れることを食い止めて利益を確保し、運上金や貿易のための資金を捻出することにあった。 松浦河内守信正は、貿易利益銀の確保と長崎町年寄を始めとする長崎地下役人の人員削減による経費節減を老中より命ぜられ、大幅な改革を実施した。松浦の地下への申渡しは、年番町年寄は長崎会所で業務を遂行し、商人・役人とは会所で接見し自宅で業務を行うことを禁止。地下役人の申請・願書等は、年番町年寄の出勤時間に合わせて提出し、それを町年寄が受理。町年寄の家来が長崎地下に関することを処理することを厳禁し、長崎会所役人が吟味して町年寄が裁断すること。町年寄が月番で取扱っている業務や金銀勘定は会所に移譲し、自宅へ会所役人を呼ぶことは禁じ、問題があれば町年寄が会所へ出向くこと。年番町年寄やその他の町年寄が取扱っていた控諸帳面は、今後は会所が引き継ぐこと。他にも町年寄の会所への出勤・退出時間の規定や、職務に怠慢な者への処罰等、多岐にわたった。 これは、町年寄を頂点とした地下人たちの組織と長崎会所による組織の二重構造となっていた長崎を、年番町年寄を長崎会所上席に据えることで会所に取り込み、その下で諸事を全てにわたり掌握する組織を再構築することを目的としていた。これ以後、町年寄が担当していた勘定関係業務は長崎会所に移管され、貿易に関するさまざまな帳面の作成は会所で担当し、町年寄が裁決することとなった。この他にも本興善町の糸蔵に保管されていた江戸への御調進薬種の扱いを会所に移す等、貿易業務を会所を中心としたシステムに変えていった。 そして、先述のように町年寄末席を廃止し、怠慢な役人の数を減らし、地下役人の受容する銀の額を減らす等、経費の削減にも着手した。奢侈の厳禁・禁令の遵守などを命じ、町年寄には地下人に対する十分な世話と教育をするように命じた。その上、町年寄から筆者・小役・女性に至るまでの衣服の規定をし、町年寄に対しては婚姻・結納における接待の簡素化まで命じた。 このように松浦信正の改革は町年寄を含めた地下役人全てを統制し、会所に権力を集中させて貿易業務を管理するものであった。この改革において、彼は会所役人の村山庄左衛門・森弥次郎達を改革に必要な協力者として取立てたのだが、用行組と呼ばれる彼らは松浦が長崎奉行を退いた後も権勢を振るい、長崎奉行・町年寄の支配を無視した振る舞いが多く、長崎奉行を辞した後も勘定奉行の加役として長崎掛を命じられた松浦との癒着が続いた。しかし、宝暦3年(1753年)に松浦が失脚すると、寛延元年(1748年)に「商売方会所取締り」を任ぜられた村山庄左衛門を始め用行組の面々は厳罰に処せられることとなり(用行組事件)、松浦により様々な制限をされた町年寄の権限は復活した。 石谷備前守清昌は、後藤惣左衛門貞栄を町年寄の上席の長崎会所調役に任命し、一代限りの帯刀を許可した。その理由は、後藤惣左衛門は他の長崎の地下人と違い金銀の海外への流出を禁止し国益を守ることを心がけているからだと述べている。その一方で、宝暦13年(1763年)3月には、長崎地下人達に対してその生活に関する触書を通達した。これは主に倹約について述べられており、役人同士の談合などの際の酒食の量にまで言及しているほか、役人同士の贈答の禁止、親戚以外の結納の祝儀の禁止、衣服の制限や冠婚葬祭・仏事の簡素化など、厳しいものであった。これは町年寄も例外ではなく、町年寄から奉行への贈答や、役人から町年寄への贈答を禁止し、町年寄の衣服は絹紬羽二重までといったことが定められた。 長崎の町の由緒ある家柄の後藤惣左衛門を会所の最高責任者とすることで、長崎の地下人の不満を抑え、それまでたびたび町年寄達が願っていた帯刀を許可することで、他の町年寄達にも自分達がいずれは同じように帯刀を許されるのではないかという希望を持たせるという、長崎地下人達との宥和を図る一方、倹約を旨として奉行による統制を強化することで石谷は海外貿易業務と町政の改革を図ったのである。
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