長崎居留地
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鎖国時代から貿易港として機能した長崎港は、1854年に国際開放された。この時は来航する外国船に薪水を供給する程度であったが、1859年に本格開放され、1860年から大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。1870年完成。グラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)一帯である。 江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄したが、明治になると長崎居留地はそれほど発達せず、むしろ普段は中国大陸の上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになった。居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並んだ。眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられた。また、近隣に雲仙温泉を控えていたことも彼ら欧米人にとっての保養地としての魅力を増すこととなった。今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残す。 長崎市では毎年9月中旬に「居留地祭り」を開催している。
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長崎居留地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 09:29 UTC 版)
1860年に長崎奉行と各国領事によって定められた「外国人居留地地所規則」に基づき、居留地の自治組織が警察を設置することになった。1875年に英米領事の対立により「外国人居留地地所規則」が実質上無効となり、長崎県は中央政府に外国人警官の採用を打診したが否決された。1878年に各国領事連名による請願でやっと認可がおりたが、財源は国費でなく、県下の酒屋税があてられた。長崎居留地は次第に衰退し警察の維持が難しくなったため、1879年に長崎県警察部に警察権を返上した。長崎県警察部では、1899年まで外国人警察官が在籍していた。 最初の外国人警官は英国人のピーター・ドールで、1879年から1895年まで在職した。ドールは母国で警察官、横浜でイギリス公使の警護の経験を持ち、滞日も13年に及んでいた。ドールが没した1895年に、米国ボストン生まれのジョン・J・オブライエンが採用され、梅香崎警察署に配属された。オブライエンはアメリカ海軍を経て捕鯨船員となり、1893年に来日、横浜居留地で事務員などをしていた。長崎居留地は外国人船員にとって酒飲みの天国として知られており、喧嘩や衝突も多く、オブライエンは在職中に柔術を習得し、1900年の帰国後は米国の大学や警察で柔術を指導、1902年からはルーズベルト大統領にも指南し、米国における柔術ブームの担い手となった。
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