長崎奉行の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 23:43 UTC 版)
長崎聞番の伊香賀はただちに長崎奉行所に事件を報告、家老・田代喜左衛門とともに口上書を提出した。差出人名は最初に討ち入った10名であった。奉行所は高木屋敷周辺で聞き取り調査するにつれ、実際に討ち入った人数はもっと多いのではないかと考え、これを問われた深堀側は後から駆けつけた9名も人数として追加した。 一方、深堀屋敷警護のために佐賀藩本領から家来・足軽数十名が派遣された。 当番の長崎奉行であった林忠朗は将軍・徳川綱吉、側用人・柳沢吉保以下の江戸幕府首脳にこれを報告、判断を仰ぐことにした。高木氏は町人とはいえ幕府から扶持米80俵を受け、幕府の仕事を請け負っていた、いわば幕府関係者であった。対する深堀側は、監督責任がある鍋島氏の本家は外様大名の大藩であり、徒党を組んで暴れることを戒めた『武家諸法度』の違反行為でもあった。 詮議には柳沢吉保の他、阿部正武・牧野成貞も参加。深堀鍋島家当主・官左衛門(茂久)の先祖鍋島茂賢は島原の乱では抜群の働きをしたのだから家来も当時の強みを残しているのであろう、今度の仕儀もいささか強すぎた働きだったが、鍋島の家風であるゆえ致しかたない、と詮議は武士である鍋島家側に好意的なものであった。
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