長崎奉行在任時の海外状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/15 13:41 UTC 版)
「平賀貞愛」の記事における「長崎奉行在任時の海外状況」の解説
平賀が長崎奉行を務めた時期は、ヨーロッパの貿易相手国オランダが、オランダ総督ウィレム5世の亡命に伴いバタヴィア共和国が成立したころで、さらにバタヴィアがフランスと組んでイギリスと交戦状態に入っていた。戦争の影響でオランダのアジア交易の拠点がイギリスの支配下になり、多くの貿易船も失われた。日本の将軍相手に贈られるはずの品々も届かなくなったため、平賀はオランダ商館長にその理由を書面に認めて提出するよう要求した。商館長は英仏海峡で船が攻撃を受けたためにヨーロッパからの製品が届かず、アジア各地の商館では日本向け商品を仕入れるための交易品が不足しているので銅や樟脳を求めた。 商館長ヘイスベルト・ヘンミーと直接面談した平賀は、日本の銅産出高の減少を詫び、銅の増産があれば輸出量増加を保証してよいとした上で、日本への輸入品は一定以上必要なのでそれを下回れば銅を減額すると告げた。ヘンミー商館長は、ヨーロッパ戦争の長期化に備えて、金巾、砂糖、蘇木、丁子、錫、象牙、綿織物などアジア製品中心の代替輸入を示唆した。 しかし、寛政8年(1796年)には戦況は悪化し、バタヴィアは日本向けの船を送り出すことができず、翌9年(1797年)から文化13年(1816年)までの約20年間、貿易船は6回欠航し、輸出銅は6万斤を大幅に下回ることになった。
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