蒸気動車とは? わかりやすく解説

蒸気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 03:15 UTC 版)

九州肥筑鉄道」の記事における「蒸気動車」の解説

ジハ1 1920年枝光鉄工所製。1931年12月廃車にしたが1933年1月客車として復活した

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蒸気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)

日本の気動車史」の記事における「蒸気動車」の解説

その歴史初期には、蒸気機関装備した「蒸気動車」が存在し日本でも1900年代から第二次世界大戦中まで若干用いられていた。床上一端小型ボイラー装備、この側の台車シリンダー取り付けて駆動するのである日本明確に導入され最初の例はフランス製の「セルポレー式自動客車」である。早くも1899年日本持ちこまれて、同年7月以降東京馬車鉄道での構内試運転が行われた記録がある。これを導入しよう目論んだ事例幾つかあったがほとんどが頓挫したセルポレー式蒸気動車実用導入した最初にして唯一の例は、1905年瀬戸自動鉄道(後の瀬戸電鉄道、現名古屋鉄道瀬戸線であった。この小型車4輪車で、セルポレーの特許による高性能なフラッシュボイラーを搭載していたが、当時日本技術では構造が複雑で使いこなせず、整備困難で、故障多発した。本来市内軌道線向けの車両であり、郊外路線勾配の多い瀬戸線路線条件にも合わなかった。発車前に給炭しておけば終点まで燃料補給不要とされたが、実際に運用する途中で燃料切れにより立ち往生することもあった。このように実用問題多かった蒸気動車はほどなく放擲され、同線は1907年には電化された。瀬戸電鉄道での蒸気動車運用記録1911年最後である。 続いて1907年にはハンガリーガンツ社の設計になる大型ガンツ式蒸気動車が関西鉄道に2両導入され鉄道国有化伴ってこれを買収した国鉄使われたほか、1909年までに近江鉄道(2両)、河南鉄道(現・近畿日本鉄道道明寺線長野線など、1両)、博多湾鉄道(現・九州旅客鉄道香椎線、2両)に導入された。これらは機関と駆動装置部分のみを輸入し車体日本国内製造された。 ガンツ式は18気圧という高圧水管ボイラー縦型配置しロッド弁装置持たず単式複式切り替え構造併設した歯車式の駆動装置によって駆動するなど、複雑精緻な構造備えていた。このため本来は高性能であったが、当時日本技術水準では整備難渋して使いこなせず、普及することなく終わった一方比較普及したのは工藤式蒸気動車であった汽車製造設計掛長であった工藤次郎1909年開発し翌年特許取得したもので、小型B型蒸気機関車ボイラ台枠の間にボルスタ設け、ここに車体台枠連結される載せる構造をとった。曲線通過時に車体に対して機関車部分ボギー式台車のように首を振る構造であった。 この着想レイアウトのほとんどは、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実際にイギリスロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道1905年開発した蒸気動車からの剽窃[要出典]であった機関車部は整備時にはボルスタピンを抜き車体切り離し前面開き戸から引き抜くことが可能で、蒸気動車の末期にはこの機関車部だけを抜き出して独立した蒸気機関車改造する例も見られた。工藤式蒸気動車は、ガンツ式ほど性能高くなく、ボイラー圧力当時一般的な蒸気機関車並の11気圧程度であったが、信頼性扱いやすさの面で当時日本では適していた。 工藤式蒸気動車の最初導入例奈良県初瀬軌道で、この蒸気動車は同線の廃線後北海道余市臨港軌道からさらに小湊鐵道譲渡客車化されながら1952年まで残存していた。 工藤式は、鉄道院には1912年から1914年にかけて18両が導入されその他に外地鉄道含めて1920年頃までに少なからぬ導入例がある。既にガンツ導入経験のあった河南鉄道のほか、三河鉄道(現・名鉄三河線)、湖南鉄道(現・近江鉄道八日市線)、播州鉄道現・西日本旅客鉄道加古川線)などが少数導入し、また台湾総督府鉄道も5両を導入している。製造多く汽車製造によるが、工藤次郎汽車製造からの退社により、汽車製造以外に川崎造船所現・川重工業)や枝光鐵工所など、大手中小での製造例少数生じた。なお、鉄道院導入されたうちの1両が犬山遊園から明治村経て2011年よりリニア・鉄道館保存展示されている。 また、工藤式は鉄道院比較大規模な鉄道会社用とは別に1915年市川三商店が発売した、主に軽便鉄道用の小型の蒸気動車が存在した。この工藤軽便蒸気動車は、ボイラ火室室部を縦置きすることで熱効率高め小型化し、空いた部分客室設けるというレイアウトで、乗客荷重がかかる部分まで含めて0-A-1形もしくは0-B-0型蒸気機関車足回りそのまま使ったのである。しかし、あくまで軽便鉄道向けの小型蒸気機関車程度動力性能であり、大型幹線用に適用することには難があったと思われる。縦置きにしたと言ってもボイラ構造そのもの無難な煙管式で、煙室構造従来通りであった一方特定の規格持たず軽便鉄道性格合わせてコンポーネント組み合わせて作られ中には同軸Aに対してボギー従台車持たせ定員拡大した形式あったようである。この工藤軽便蒸気動車は九州電灯鉄道経営する唐津軌道納品された。ただ、これらは工藤式を名乗っているものの、原型工藤式とは著しく構造がかけ離れており、実際に汽車製造退職後の工藤次郎設計したものかどうか資料散逸してしまっている。 これらは蒸気機関車同様に石炭燃料とし、機関助手乗務要したガンツ式や工藤式については両側運転台で、機関室と逆側の方向走行する場合先頭運転台機関士ワイヤー伝声管を介して後部機関室助士指示与え走行していた。 このように取り扱い手間がかかることから、より運用が簡便高効率内燃機関動力とする内燃動車出現したことに伴って大正時代末期以後に蒸気動車は廃れ大半機関部撤去して客車化されていった。 しかし、国鉄私鉄保有した工藤式蒸気動車の一部は、1930年代後期以降戦時体制による燃料統制期に至って自走可能な状態で温存されていた。その結果内燃動車1930年代末期以降石油燃料補修部品入手困難から事実上使用不能に追い込まれると、残存した蒸気動車はこれに代わって各社フル稼働し、終戦直後窮乏期にかけて、老朽車としては異例走行キロ数を記録した原始的な機構と、燃料蒸気機関車同様の石炭であることとが幸いし物資不足の戦時下でも維持運行することができたのである鉄道省から一部地方私鉄貸し出され車両については、老朽車であったにもかかわらず貸出先各社から払い下げ再三渡って懇願されるほどの高評価得たという。ただし、この動きはあくまで旧型車の活用とどまり、この時期敢えて蒸気動車が新造されるまでには至らなかった。 なお、「気動車」の語源はこの「蒸気動車」の省略形である。そこから転じて熱機関動力自走客車全般呼称となった。ただし前述関西鉄道場合は汽動車略していたとされる

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蒸気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 09:34 UTC 版)

北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の記事における「蒸気動車」の解説

蒸気動車は1形式1両が在籍したキハ1形(キハニ1) 旅客列車増発用として、国鉄湧別線使用されていた1912年汽車会社製蒸気動車のキハニ6453を1939年借入1941年譲受代価8,360円)してキハニ1としたもの全長15530mm、定員70人(座席44人)、荷重1t、自重24.80tの木造車で動輪径860mm、固定軸距1676mm(動台車)/1680mm(従台車)、シリンダ178mm×385mm。 車体前部から動台車ボイラのある運転室手荷物室、3等客室出入台兼後部転室配置で、座席ロングクロス組み合わせであった。 新夕張 - 野幌間で使用されたが勾配に対応できなかったためあまり使用されず、1943年天塩鉄道譲渡されている。天塩鉄道では1944年客車改造されナハ101となったことになっているが、現車鉄道省木造客車ホハ12000形となっており、夕張鉄道でもナハニ1もしくはホハ11となっていた可能性もあり、客車化および通常の客車との現車振替時期等は不明である。

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蒸気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 18:48 UTC 版)

南満洲鉄道の車両」の記事における「蒸気動車」の解説

ジハ1形 南満洲鉄道京城管理局朝鮮総督府鉄道京仁線用の車両機関部車内一端収められ日本の蒸気動車と異なり客車ハ2形の台車2組のうち前方1組撤去し軸配置1A形の小型タンク式蒸気機関車・シグイ形の台枠後部客車車体載せて駆動力をかけつつ牽引する構造になっている

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蒸気動車(移設済)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 21:14 UTC 版)

博物館明治村」の記事における「蒸気動車(移設済)」の解説

1912年汽車製造製、鉄道院ジハ6006を経て日本国有鉄道キハ6401。客車蒸気機関取り込んだもので、1両に機関客室・乗務員室があり単行使用できる前面の扉を開いた状態で展示されていたが、運用時閉めていた。鉄道記念物指定されており、前述経緯から国鉄JR東海)より貸与されている形になっていた。 なお、2011年開館したリニア・鉄道館への移設のため、2009年11月を以て一般公開終了され同年12月7日修復のため運び出された。 森鴎外夏目漱石住宅 川崎銀行本店 内閣文庫 宮津裁判所法大井牛肉店 聖ザビエル天主堂ザビエル天主堂 北里研究所本館 千早赤阪小学校講堂 神戸山手西洋人住居 長崎居留地二十五番館 芝川又右衛門

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