全盛と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:00 UTC 版)
当時のコレジオは島原(加津佐)にあり、のちに天草・長崎と移転したため、それぞれの時期の出版物は出版地の名を採って「加津佐版」「天草版」「長崎版」とよばれる。また、京都で印行された『こんてむつす・むん地』は、出版者の名を採って「原田版」と呼ばれる。また、長崎で印行された国字本は、イエズス会から印刷所を委託した後藤宗印という信者のもとで刷られ、3点が確認されている。 印刷機の導入が決定されたころと比べて、キリシタンへの政治的弾圧は大きなものとなっていた。各地のイエズス会の施設が破壊され、まず加津佐のコレジオにおかれた印刷機は、日本語及びラテン語の書物の印刷に早速使われ、日本文典や辞書などが印刷のために準備された。出版にあたっては内容を研究・精査し、認可したもののみにし、以降教団で統一的に使用するものとした。認可は教皇より日本で独自に行えるよう勅を得て望んだのである。その後、天草の学林、長崎へと印刷機は場所を移し、また資金の都合などから、後藤登明宗印(印刷所)へ印刷機を託し、国字本の出版をさせたり、京都において原田アントニオに出版させたりしたのであった。 慶長19年(1614年)にキリシタンに対する大々的な追放令が出され、印刷機がマカオに移されたのちも『日本小文典』(1620年)などが印行されはしたものの数点にとどまり、日本に残った書物も寛永4年(1627年)焼却されたのである。
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