全盛期から引退まで
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1955年、第5回ショパン国際ピアノコンクール10位(日本人初の入賞)。3つの国際コンクールに入賞したのも日本人初。前回混戦だったことからこの年初めて採用された点数計算機によれば、1次予選では5位、2次は19位、3次で6位だった。この年のショパンコンクールも大激戦の様相を呈し、特に上位10人はほぼ横並びに等しく、1位のアダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)と2位のウラディーミル・アシュケナージ(ソ連)の差はわずか0.1ポイントで、1位と10位の差も7.6ポイントしか開いていなかった。そのため、審査員だったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが、ハラシェヴィチの1位に異論を唱え、アシュケナージが2位で田中が10位という結果に憤慨し、どちらの認定書にもサインを拒否して退席してしまっていたことが、1989年9月、ワルシャワの新聞『エクスプレス』によって、異例の全段写真付きで明らかにされた。同年日本に凱旋帰国し、日比谷公会堂でコンサートを開いた。1956年に作曲家の宍戸睦郎と結婚するも、互いに多忙のためすれ違いが続き、1959年に離婚(その後も音楽仲間として交流を続けた)。その後もパリ(1959年まで)やウィーン(1960年から)を拠点にヨーロッパから南米まで幅広い演奏活動を続ける。1960年代初めの頃、一時帰国した際聖心女子大学に招かれ当時の皇太子妃(現上皇后)の前で演奏。皇太子妃はとても感動し、演奏後に歓談。その際撮られたツーショット写真を田中は宝として、亡くなるまで自分のピアノの上に飾り続けたという。1966年、弟千香士がNHK交響楽団のコンサートマスターに就任し、6月13日に東京文化会館で記念の共演ライヴを行った。 1967年12月、一時帰国のつもりで帰国するが、その後体調を崩し、年末年始のヨーロッパ・コンサートツアーをキャンセル。手の指が開かなくなり、関節が痛み、高熱が続く。病院では過労による急性肝機能障害と診断。すぐに治るものと思い、1968年から東京に演奏活動の拠点を置くが、長期間の投薬治療にも症状は好転せず、度重なる検査の結果、難病の膠原病と診断され、演奏活動が困難になる。それでもマッサージをしたり、手に直接鎮痛剤を打ちながらコンサートを続けていたが、1968年3月、京都市交響楽団との協演で、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した際、第1楽章のコーダに入るところで痛みのために止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするという事態になり、これがオーケストラと協演した最後のステージとなった。その後も病は進行し、様々な療法を試みるも症状は悪化の一途をたどり、1970年、日生劇場で最後のリサイタルを開き、完全に演奏活動を引退した。同年、父詠人が死去。
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