全盛期から引退までとは? わかりやすく解説

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全盛期から引退まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 16:48 UTC 版)

田中希代子」の記事における「全盛期から引退まで」の解説

1955年第5回ショパン国際ピアノコンクール10位(日本人初の入賞)。3つの国コンクール入賞したのも日本人初。前回混戦だったことからこの年初め採用され点数計算機によれば、1次予選では5位、2次19位、3次で6位だった。この年ショパンコンクールも大激戦様相呈し、特に上位10人はほぼ横並び等しく、1位のアダム・ハラシェヴィチポーランド)と2位ウラディーミル・アシュケナージソ連)の差はわずか0.1ポイントで、1位と10位の差も7.6ポイントしか開いていなかった。そのため、審査員だったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが、ハラシェヴィチの1位に異論唱えアシュケナージ2位田中10位という結果憤慨し、どちらの認定書にもサイン拒否して退席してしまっていたことが、1989年9月ワルシャワ新聞エクスプレス』によって、異例全段写真付き明らかにされた。同年日本凱旋帰国し、日比谷公会堂コンサート開いた1956年作曲家宍戸睦郎結婚するも、互いに多忙のためすれ違い続き1959年離婚その後音楽仲間として交流続けた)。その後パリ1959年まで)やウィーン1960年から)を拠点ヨーロッパから南米まで幅広い演奏活動続ける。1960年代初めの頃、一時帰国した際聖心女子大学招かれ当時皇太子妃(現上皇后)の前で演奏皇太子妃はとても感動し演奏後に歓談その際撮られツーショット写真田中は宝として、亡くなるまで自分ピアノの上飾り続けたという。1966年、弟千香士がNHK交響楽団コンサートマスター就任し6月13日東京文化会館記念共演ライヴ行った1967年12月一時帰国のつもりで帰国するが、その後体調崩し年末年始のヨーロッパ・コンサートツアーをキャンセル。手の指が開かなくなり関節痛み高熱が続く。病院では過労による急性肝機能障害診断。すぐに治るものと思い1968年から東京演奏活動拠点を置くが、長期間投薬治療にも症状好転せず、度重なる検査結果難病膠原病診断され演奏活動困難になる。それでもマッサージをしたり、手に直接鎮痛剤打ちながらコンサート続けていたが、1968年3月京都市交響楽団との協演で、ショパンピアノ協奏曲第1番演奏した際、第1楽章コーダに入るところで痛みのために止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするという事態になり、これがオーケストラ協演した最後のステージとなったその後も病は進行し様々な療法試みるも症状悪化一途をたどり、1970年日生劇場最後リサイタル開き、完全に演奏活動引退した同年、父詠人死去

※この「全盛期から引退まで」の解説は、「田中希代子」の解説の一部です。
「全盛期から引退まで」を含む「田中希代子」の記事については、「田中希代子」の概要を参照ください。

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