全盛期から末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 08:22 UTC 版)
天平宝字6年(762年)頃から造東大寺司の規模は拡大し、機構も複雜化してゆく。下部機構には政所、大炊厨所、造仏所、木工所、絵所、鋳所、造瓦所などが属し、写経部門は写経所が担い、臨時の造営・営繕・資材調達機関として造石山寺所(写経所つき)、造香山薬師寺所、甲賀山作所、田上山作所、高嶋山作所、泉津木屋所などが設けられた。 これらの「所」には、主典・史生・舎人がそれぞれ別当・案主・領として事務を管掌しており、営繕部門では技術官の雑工(大工・長上工・番上工)が配備され、匠丁、雇工を指揮し、写経所には経師・装潢・校生などが所属している。ほかにも優婆塞・知識人も参加し、仕丁及び一定の功賃の支給を受ける雇夫・雇女・奴婢など多数の役民が参加している。官人身分の史生・舎人・雑工・経師には、造東大寺司所属の司人・司工のほか、諸識寮の舎人や図書寮書生・画工司画工など、ほかの官司からの出向者が多く、雇工・雇夫・雇女の比里が高いことと考え合わせると、臨時設置の造営・写経官司の特徴を表している。 岸俊男によると、造東大寺司の官人任命には当時の政治的推移が反映されているとされ、天平勝宝8歳(756年)から翌年にかけて藤原仲麻呂の反対派が更迭されて親仲麻呂派の官人が増加しているが、天平宝字7年(763年)頃からは逆に仲麻呂派が左遷されるという現象が起きている。 造東大寺司の基本的な財源は封戸物であり、そのために造東大寺司の官人は流通経済とも深く結びつき、東大寺領荘田の経営にも関与した。天平宝字4年(760年)前後は仲麻呂の政策により東大寺領はかなり抑圧され、それにより仲麻呂が凋落した天平宝字末年より、封戸・荘田の管理などの経営の主体が東大寺を統轄する三綱へと移行したことが明らかになっている。造東大寺司は、東大寺の主要部の造営がほぼ完了した延暦8年(789年)3月に停廃され、以後は規模を縮小させつつ、三綱管轄下の東大寺造寺所(造東大寺所)に職務が継承され、平安時代中期(11世紀前半)には「東大寺修理所」という寺営工房に転換していった。 なお、造東大寺司関係の文書のうち、造石山寺所と東大寺写経所に集積されていた文書群とその紙背文書群は東大寺の正倉院に保存され、『正倉院文書』へと繋がっている。
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