東大寺写経所
読み方:トウダイジシャキョウショ(toudaijishakyousho)
東大寺写経所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 22:55 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動東大寺写経所(とうだいじしゃきょうじょ)は、奈良時代に、東大寺に設置された写経機構(写経所)で、造東大寺司が管轄した。金光明寺写経所から改称した。
概要
その起源は遅くとも藤原安宿媛(光明皇后)の皇后宮職写経所まで遡ると言われ、さらに東大寺の前身である「金光明寺」の写経所を経て東大寺写経所へと発展したものである。文献上の初見は、天平19年(747年)12月15日の東大寺写経所解案[1]である。「東寺写経所」と記されたものもある。造東大寺司に属して「造東大寺司写経所」とも言われ、写経の内容により、「写書所」・「写疏所」・「写後経所」・「奉写一切経所」とも称した。光仁朝の宝亀7年(776年)6月の「食口案」が、古文書に見える最後の記述であるが、称徳朝の天平神護元年(765年)から神護景雲3年(769年)までの5年間は、この写経所で写経が行われた形跡が見られない。神護景雲4年(770年)5月からは五部の一切経の書写が行われている。
一日の勤務人数は宝亀年間には最高で経師50人位、校生などを合わせて80人近いことがあり、一か月の写経能力は3,400巻であった。写経の底本である経典蒐集センターとしての役割も持ち、正倉院文書はこの写経所の文書や帳簿群である。
大量の写経が行われた経典
- 「光明皇后願経」(「五月一日経」)
- 「後写一切経」
- 「千部観世音経」
- 「二十部華厳経」
- 「千部法華経」
- 「百部最勝王経」
- 「大般若経」
- 「百部法華経」
- 「法華経寿量品」4000巻
- 「金剛般若経」(1000巻・1200巻)
- 「[称讃浄土経」1800巻
- 「光明皇太后周忌斎一切経」
- 「二部大般若経」
- 「御願大般若経」など
脚注
- ^ 『正倉院文書』
参考文献
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東大寺写経所
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東大寺写経所は皇后宮職・造東大寺司の下職である。元は藤原光明子の私的な機関であったが、聖武天皇の皇后となって皇后宮職の下に置かれ、後に造東大寺司の下に置かれた。玄昉が唐から持ち帰った経典をもとに736年(天平8年)から一切経の書写を始め、この写経事業は756年頃まで続いた。光明皇后が740年(天平12年)5月1日に願文を記したため、「五月一日経」と呼ぶ。 写経所文書は、天平期を含む8世紀の約50年間(727年-776年、神亀4年-宝亀7年)に、東大寺写経所で作成された帳簿類である。この中には五月一日経に関する史料も多い。当時、紙は貴重品で、不要となった文書の裏面を帳簿に再利用していた。写経所文書の紙背文書の中には、戸籍や計帳、正税帳などの公文書が含まれていた。 帳簿類が正倉院中倉に収められた経緯はわかっていない。
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