東大寺合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
こうして足利義栄を擁立する篠原長房・三好三人衆側の畿内における優勢が固まったかに見えたが、永禄10年2月16日、三好義継が突如堺を出奔し松永久秀の陣営に迎えられた。『足利季世記』によれば、義継が若輩であるため何事も三人衆の意向のままで、義栄は三人衆を厚く遇し、篠原・康長・三人衆もまた義栄を尊重しており、義継は総大将でありながら軽んぜられることに憤慨して松永方へ内通したという。三好氏の当主が敵側に奔るという事態に、その代行として阿波の三好長治が畿内に渡ったがやはり若年であったため、長治に仕える康長・篠原と三人衆が集団で指導する体制が取られた。 堺周辺で転戦していたと見られる久秀は義継を伴い4月に信貴山城を経て奈良市街北方の多聞山城に帰城した。これに対して三人衆・筒井連合軍は南方の天満山・大乗院山に陣取り、奈良一帯を舞台に両軍の睨み合いが始まった。5月に石成友通・池田勝正率いる軍勢は東大寺念仏堂・二月堂・大仏殿回廊等に陣を構え、松永軍は同寺戒壇院に拠点を移したが、対峙を続ける間双方とも周辺各所に火を付け、東大寺や興福寺の一部塔頭や般若寺が焼失した。7月23日には戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣を構えた。10月10日、久秀は大仏殿に拠る連合軍に総攻撃をかけたが、三人衆の陣からの出火で大仏殿は火の手に包まれ、東大寺全域が戦場と化した。松永軍は筒井・三人衆連合軍の撃退に成功したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。 詳細は「東大寺大仏殿の戦い」を参照 この間、織田信長は美濃攻略に当たっていたが、8月15日に斎藤龍興の居城稲葉山城(岐阜城)を陥れ、さらに北伊勢の攻略にも着手した。大仏殿の戦いの後、信長は大和北部や山城南部の武士に松永父子への加勢を呼びかけ自らも伊勢経由で大和へ進出する構えを見せ、久秀も義昭・信長の上洛を材料に諸方面へ調略を仕掛けていたが、なおも劣勢であった。
※この「東大寺合戦」の解説は、「永禄の変」の解説の一部です。
「東大寺合戦」を含む「永禄の変」の記事については、「永禄の変」の概要を参照ください。
- 東大寺合戦のページへのリンク