奉行による仕置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 23:35 UTC 版)
長崎の町の刑事裁判も奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許出来るが、遠島刑以上の刑については、多くはその判決について長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰されることになっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上を要し、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。その場合は、死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行された。幕府の承認を得ず、独断専行すれば、処罰の対象とされた。大事件については、幕府からの上使の下向を仰ぎ、その指示の下にその処理にあたった。 奉行所の判決文集である「犯科帳」で、本文の最後に「伺の上」として処罰が記してあるのは、その事件が極刑にあたる重罪である場合や、前例の少ない犯罪である場合等、長崎奉行単独の判断では判決を下せない時に、江戸表に伺いをたて、その下知によって処罰が決まったことを指した。その江戸表への伺いの書類を御仕置伺という。遠島以上の処分については、長崎奉行は御仕置伺に罪状を詳しく記した後、「遠島申し付くべく候や」という風に自分の意見を述べた。下知は伺いのままの場合が多かったが、奉行の意見より重罪になることもあれば軽くなることもあった。なお、キリシタンの処罰については、犯科帳には記述されていない。 遠島刑は、長崎からは壱岐・対馬・五島へ流されるものが多く、大半は五島であった。まれに薩摩や隠岐にも送られた。天草島は長崎奉行の管理下にあったが、そこには大坂町奉行所で判決を下された流人が多かった。遠島の場合、判決が下っても、すぐに島への船が出る訳ではなく、天候や船の都合、判決の前後する犯人を一緒に乗船させる都合等により、かなり遅れることもあった。そのため、遠島の判決文には、末尾に「尤も出船迄入牢申し付け置く」と書き添えてあるものが多かった。 長崎で判決を受けた流人の大部分は五島に送られたが、その流人の支配については五島の領主に一任された。五島の領主から、流人がさらに罪を重ねたり島抜けをしたり等の報告があった場合には、奉行所の記録にもそのことが付け加えられた。天草島の流人は長崎から送られる者は比較的少なかったが、天草は長崎奉行の支配下にあったため、長崎奉行所の記録には天草流人の様子を伺うものが多い。流人が島で罪を重ねた場合、天草は長崎奉行の支配下のため、奉行がその処罰を直接指示した。壱岐・五島・対馬などの場合は、処罰はその領主家来の支配に委ねられるが、その連絡報告を長崎奉行から求められた。 奉行所の取り調べや処分について不平不満のある市民は、それについて意見を述べたいと思ったら町役人を通じて訴える必要があった。手続きの煩雑さや、上申しても願いが通る可能性が低いことから、町役人も手続きをしようとしない場合が多かった。これに対して市民は、願いを文書にして奉行所に投げ込む「投げ文」「捨て訴え」、直接役人や役所へ陳情する「駕籠訴え」「駈けこみ訴え」等を行なった。これらの非正規の手順は、「差越願(さしこしねがい)」として却下され、投げ文をした者の身元が分かれば、本人を町役人付き添いで呼び出し、目の前で書状は焼き捨てられた。しかし、表面上はそれを却下しながら、奉行所でそれを元に再吟味をし、市民の要求が通る場合もあった。 唐人やオランダ人に対する処罰は日本人と同じにする訳にはいかず、手鎖をかけて中国船主やカピタンに身柄を渡し、貴国の法で裁いて欲しいと要求する程度だった。罰銅処分(過料)か国禁処分になる場合が多く、国禁処分になった唐人は唐人屋敷に閉じこめられ、次に出港する船で帰国させられ、日本への再渡航を禁じられた。しかし開港後は、多くの外国人によるトラブルが発生し、従来のように唐船主や出島のカピタン相手に通達するだけでは済まず、各国の領事に連絡し、しかもその多くは江戸表へ伺いをたてねばならなくなった。 江戸やその他の場所では、非人に対する刑罰はその頭の手に委ねられていたが、長崎の場合は直接奉行によって執行された。
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