今村の隠れキリシタン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:50 UTC 版)
旧筑後国の今地区(以下、今村)は、江戸時代に隠れキリシタンとして信仰を守った人々が多く暮したという歴史を持つ。今村のキリスト教信仰は戦国時代にさかのぼるとされるが、起源ははっきりしない。キリシタン大名として著名な大友宗麟の支配下にあった1560年代には早くも信徒集団があらわれたという。豊臣秀吉による九州平定後の領土配分(九州国分)によって当地一帯の領主となった久留米城主毛利秀包も、熱心なキリシタン大名であった。 徳川幕府による禁教令以後も、今村の信徒たちは隠れキリシタンとして信仰を続けていた。現在の聖堂の祭壇は、江戸時代初期に殉教し、その後地元信徒の崇敬を集めたジョアン又右衛門の墓の上に設けられている。 幕末、長崎・大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父は、隠れキリシタンの発見とカトリック教会の正統な信仰への復帰に努めていた。1867年(慶応3年)、プティジャン神父とその信徒たちによって、今村のキリシタンたちが「発見」された。当時、今村地域には200戸ほど(今村に100戸ほど、周辺に100戸ほど)のキリシタンが潜伏していた。隠れキリシタンが多く存在した九州でも、平野部でのキリシタン発見は極めて稀なことであった。1873年(明治6年)のキリシタン禁令解禁まで、今村の信徒と大浦天主堂は密かな連絡を保ち、信仰を守った。
※この「今村の隠れキリシタン」の解説は、「今村天主堂」の解説の一部です。
「今村の隠れキリシタン」を含む「今村天主堂」の記事については、「今村天主堂」の概要を参照ください。
- 今村の隠れキリシタンのページへのリンク