大名への出世とは? わかりやすく解説

大名への出世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)

柳生氏」の記事における「大名への出世」の解説

室町時代柳生氏動向は殆ど不明であり、木沢長政筒井順昭属す小領主にすぎなかった。しかし永禄2年1559年松永久秀大和侵攻機に柳生宗厳が久秀に仕官すると、宗厳は久秀の取次務めるなど信頼深めていく。久秀が織田信長と同盟を結ぶと、外部信長からも認知され存在となり、久秀の下で興福寺在陣衆を指揮するなど松永軍軍事的基盤にもなる。しかし天正5年1577年)に久秀が織田信長争って滅亡すると、代わって大和守護し筒井順慶にも従わず、縁の深い十市遠長結託した(『多聞院日記』)。さらに豊臣秀吉太閤検地によって隠田の罪で2,000石の所領没収されるなど、次第落ちぶれていった領主として没落する一方で宗厳上泉より相伝受けた剣豪として名声得て、その門下には毛利輝元などの大名名を連ねた文禄3年1594年5月3日には、黒田長政仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康面会し家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役迎えたい申し出を受ける。宗厳当時、すでに66歳という老齢だったため、これを辞退し代わりに、五男の柳生宗矩指南役として推挙したのであるそのことが、『玉栄拾遺』にも詳細に記されている。 文禄甲午の年聚楽紫竹村にて宗厳公の剣術始て神君徳川家康上覧木刀を持玉ひ。宗厳是を執るべしと上意あり。即ち公無刀にて執り給ふ。其時神後ろ倒れはんとし上手な向後師たるべしとの上の上、景則の刀を賜ひて誓詞辱くす。時に5月3日也。且俸禄200石を賜ふなにはともあれ信長秀吉時代落ちぶれた柳生氏は、家康時代に再び世に出ることとなったのである

※この「大名への出世」の解説は、「柳生氏」の解説の一部です。
「大名への出世」を含む「柳生氏」の記事については、「柳生氏」の概要を参照ください。

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