大名への立身
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天正5年(1577年)の羽柴秀吉の播磨攻めの時、別所長治に従って朝正とその子である友員と共に三木城に入ったが、小寺孝高の説得により退去して、加古川城に戻った。 同年、武則は孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となり、三木合戦に参戦した。その支城である野口城の攻略が武則の初陣となる。更に三木城の攻防戦では箕谷ノ上付城を守り、包囲網の一翼を担った。 一方、朝正は三木の合戦の一戦である平井山合戦(天正7年2月6日(1579年3月2日))で討死したので、天正8年(1580年)に武則が家督を相続した。 その後も中国戦役に従軍していたと考えられるが、天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺の変が起こると、武則は秀吉の中国大返しに従って、6月13日の山崎の戦いに参加した。10月15日には、大徳寺で行われた織田信長の葬儀に陪臣として参列した。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは、武則は「金の角取紙のエヅルの指物」の出立ちで、佐久間盛政配下の宿屋七左衛門と槍を合わせた。宿屋七左衛門は烏打坂の南に踏みとどまって桜井佐吉家一と戦っていたが、佐吉が宿屋に斬りつけられたところへ武則が突進して佐吉を助け、七左衛門が槍を突き出したところで武則が一槍で突き殺したという。こうして、秀吉の面前の西の切り通し付近で奮戦して武功を立てた武則は、福島正則や加藤清正ら(賤ヶ岳の七本槍)と共に一番槍の賞詞が6月5日に渡され、8月1日、播磨国加古郡に2,000石、河内国河内郡に1,000石など合わせて3,000石余を拝領した。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として兵150名を率いて本陣を守っていたと考えられる。天正14年(1586年)に方広寺大仏の作事奉行を務め、同年、従五位下内膳正に叙任された。天正15年(1587年)の九州征伐にも兵150名を動員して従軍しており、同年3月には秀吉から加古川を軍勢が滞りなく渡河出来るよう集められるだけの船の調達を命じられている。更に九州平定後の同年5月には、秀吉より将来の大陸出兵に備えて博多で城普請に従事するよう指示されたが、博多への築城は実際には行われなかった。 天正16年4月14日(1588年5月10日)後陽成天皇の聚楽第行幸の際には天皇の行列に供奉している。天正18年(1590年)の小田原征伐にも兵150名を動員して参加した。なお武則はこれら天下統一に至るまでの戦役のほとんどで後備として秀吉の周囲を守るか後方支援にあたっていた。 天正19年(1591年)には近江国検地奉行となって増田長盛らと共に検地を行っており、近江坂田郡にある秀吉の蔵入地(直轄領)1万2,000石の代官にも任じられていた。この他大和国宇陀においても検地奉行や秀吉の蔵入地の代官を務めていたとされる。 文禄元年(1592年)の文禄の役では、目付として片桐且元らと共に200名の手勢を引き連れて名護屋城へ出兵し、織田秀信の九番隊に属して朝鮮に渡海した。現地では且元らと共に石田三成ら奉行衆の配下の「御代官衆(御小姓衆)」に位置付けられ、占領地の代官を担うものとされていたようである。それ以外にも太田一吉や新庄直忠と共に占領地で離散した朝鮮住民に帰還を促す訓令を発布するなどしたほか、晋州城攻防戦に参加して活躍している。翌年、講和に向けた休戦に伴って帰国した。 帰国後、文禄2年(1593年)には自領に近い播磨三木郡の秀吉の蔵入地1万石の代官に任じられている。更に実態ははっきりしないものの、中川秀成移封後の三木城歴代城番の一人としても武則の名が伝わっている。文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも参加した。 文禄4年(1595年)に豊臣秀次が失脚すると、秀次が高野山に出発するまでの間、伏見の武則の屋敷に秀次を軟禁したという。秀次事件の直後の同年8月17日にはかつての賤ヶ岳での戦功を追賞するとの名目で播磨国内にて6,000石の加増を受け、加古川城主1万2,000石の大名となった。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、形見分けとして遺物金10枚を拝領した。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、360名の兵を率いて文治派奉行衆を中心とした石田三成方の西軍に加わり、同じ播磨の木下延俊と共に伏見城の戦いに参加した。更に関ヶ原の本戦では宇喜多秀家隊に属して奮戦したと言われている(関ヶ原本戦の配置参照)。関ヶ原の戦いの戦後処理で家禄を没収されて改易された。
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