播磨攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
九州へと落ち延びる途中、尊氏は光厳院から院宣を得る。新田義貞の討伐を促す趣旨であった。尊氏はこの院宣を根拠に、各地の武将に自分に合力して義貞を討ち取るよう促す。一方、義貞は尊氏を追撃し、その途上にある赤松円心の拠点である播磨を攻めることになるのだが、この際義貞の出兵に遅れが生じた。この遅れた出兵について、一説には、義貞はこの間に病に罹患していたのではないかとされており、奥富・峰岸らがこの説を支持している。病名は瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病であったという。 いずれにせよ義貞の出陣には遅延が生じ、江田行義と大舘氏明が先発隊として播磨へ赴くこととなった。義貞本人が播磨へと出陣したのは、3月30日のことであった。一方、尊氏は多々良浜の戦いで快勝し、着実に九州で戦力を増強して巻き返しつつあった。 義貞は赤松円心の篭る白旗城を攻撃し、弟の脇屋義助が三石城を攻めることとなる。しかし、義貞は赤松攻めに手こずり、いたずらに時間を浪費してしまうこととなる。先発した江田行義と大舘氏明は、3月6日迎撃してきた赤松軍相手に播磨書写山で快勝を収めるが、その後10日余りここに留まり、後詰めの部隊の到着を待った。その後、宇都宮公綱、城井冬綱、菊地武澄などが合流し、軍勢が数万に膨れ上がると、一気呵成に赤松軍に攻撃を仕掛けた。劣勢となった赤松軍は、白旗城で篭城戦の構えに出た。城に篭る円心は偽りの降伏の使者を送るなどして新田軍を欺き、時間を浪費させると共に隙をついて白旗城内に兵糧などを送り込むことに成功する。この時、義貞はまだ京都におり播磨で指揮をとっていなかったが、『太平記』は、義貞自身が円心の巧妙な策に引っかかったと記述している。 到着した義貞は、円心の策略に江田、大舘らが翻弄されていたことを知り激怒する。そして、白旗城を包囲して猛攻を仕掛けた。しかし、円心はよく持ちこたえ、なかなか白旗城を陥落させることができず、50日近くも時間を費やしてしまった。攻めあぐねている中、弟の脇屋義助が、かつて鎌倉幕府が、楠木正成の篭る金剛山攻めに手こずったことが滅亡の遠因となった事例を引き合いに出し、別働隊を編成して備前・播磨の国境にある船坂峠へ攻め込ませるよう提案した。義貞はこの提案を受諾。別働隊が船坂に差し向けられることとなった。船坂へ進軍した新田軍は、児島高徳と連携して、斯波氏頼の軍勢を破って船坂峠の突破に成功、さらに、大井田氏経の軍勢がその勢いで備中まで進撃して福山城を制圧、江田行義の部隊も奈義城、能仙城、菩提寺城の三城を陥落させて、美作にまでなだれ込んだ。 その後、脇屋義助は斯波氏頼が篭城する三石城の攻略に着手する。赤松円心が篭城する白旗城にも、依然として攻撃が加えられていた。しかし、この二城はよく持ちこたえ、新田軍は容易に落とすことが出来ずにいた。義貞が城攻めに時間を浪費している内に、九州で巻き返しを図った足利尊氏が再度の上洛を目指して西から東進、5月1日には厳島に到着した。義貞の播磨攻めもここに終わり、義貞は再度足利尊氏との決戦に及ぶこととなる。
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