播磨支配と相次ぐ内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 10:10 UTC 版)
文明10年(1478年)、応仁の乱が終結した頃から、赤松家の播磨支配に動揺が見られるようになった。先の有馬氏の反乱の他、文明3年(1471年)には赤松家の一族で播磨北部に勢力を持つ在田氏が、仙洞御料所の松井荘を横領するという事件を起こした。この時は政則が派遣した宇野政秀と堀秀世により一旦鎮圧された(『島田文書』)。だが在田氏と政則の対立は続き、9年後の文明12年(1480年)5月にようやく政則は在田一族を失脚させたが(『大乗院寺社雑事記』)、同年9月には在田残党が所領を再度横領した(『魚住文書』)。しびれを切らした政則は、文明14年(1482年)閏7月、在田一族4名を殺害した(『大乗院寺社雑事記』)。この一連の争いは、在田氏が赤松惣領家の家督を狙ってのことであったとする見解がある。 領国支配の動揺が見られる一方で、政則の中央政界における立場も悪化した。文明11年(1479年)8月、幕府により政則は出仕の停止を命じられた(『雅久宿彌記』『晴富宿彌記』)。赤松領内における寺社領の扱いにおいて、将軍・足利義尚の意向に沿わなかったことが理由とされているが、当時の幕府はその権力が衰退しており、寺社領などの横領は赤松家に限らず各地の守護大名がやっていた事である。当時、義尚とその父で大御所の義政の対立があり、政則は義政の寵臣だったことが出仕停止の真の理由ではないかと推測されている。 文明12年(1480年)10月には播磨で徳政に関連する土一揆蜂起の風聞が流れた(『清水寺文書』)。赤松家は土一揆を起こすなら厳しく対処すると宗徒に通告した。このように、播磨など旧赤松領内では赤松一族の内紛、中央政界での立場悪化などから領国支配が不安定になっていた。これは赤松家が播磨を奪回した際に、在地の豪族を被官に取り込んでいたためである、と推測されている。当時の「赤松家」の領国統治の基盤はすなわち彼ら在地豪族の協力により成立しており、彼らの協力を得られなければ「赤松家」そのものが存続できなくなる危険性を孕んでいた。
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