関ヶ原本戦の配置
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本項では慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦い本戦の布陣について扱う。関ヶ原の戦い本戦における東西両軍の布陣を記録した一次史料は確認されておらず、現在知られている布陣図は江戸時代成立の二次史料に基づくものである。布陣に関する詳細な記述のある二次史料としては『黒田家譜』・『石田軍記』・『関ヶ原軍記大成』・『大垣藩地方雑記』などがあるが互いの記述は一致していない。
- ^ 白峰旬「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」(『別府大学大学院紀要』15号、2013年)
- ^ 史料本文では、藤古川を越えた場所にあって西北に山が控える平場、としている。
- ^ 原文ママ
- ^ 小野武雄編『日本農民史料聚粋.第9巻』巌松堂書店、1944年。
- ^ a b c 地図閲覧サービス
- ^ a b c d e f g h i j 本文史料を参考
- ^ a b c 伊藤長実は伊東長実の、高田薩摩守は豊後守の高田治忠の可能性が、三淵大和守は三淵藤英は既に死去、子の三淵光行や他の子息は細川藤孝の一族かつ、家臣なので疑問がある。
- ^ 本陣桃配山、陣形魚麟鶴翼
- ^ 桃配山一二町先に旗を立てる 金扇馬印一本、葵旗七本、白旗二十本
- ^ 八王子甲州者長柄二百本 二人ずつ交替して家康の側に従う
- ^ 根来同心百人ずつ率いる
- ^ 足軽百人
- ^ 甲賀侍三十人斗
- ^ 鷹師同心二十人自分具足鉄砲持
- ^ 五の字の指物を差す
- ^ 家康は本多忠勝陣二町後方に馬印、小姓衆、使番衆のみ連れて指揮する
- ^ 本文史料には75,320、75,330とある
- ^ 本文史料には92,000(関ヶ原へ進出した軍勢のみ)、108,760(内、80,000は内応・傍観)、118,680、120,000、128,600とある
- 1 関ヶ原本戦の配置とは
- 2 関ヶ原本戦の配置の概要
- 3 『朝野舊聞裒藁』による布陣
- 4 脚注
- 関ヶ原本戦の配置のページへのリンク