渡辺重綱
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       渡辺重綱(守綱寺所蔵)
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| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 | 
| 生誕 | 天正2年(1574年) | 
| 死没 | 慶安元年10月1日(1648年11月15日) | 
| 別名 | 通称:半蔵、忠右衛門 | 
| 墓所 | 守綱寺 (豊田市) | 
| 主君 | 徳川家康→義直 | 
| 藩 | 尾張藩付家老 | 
| 氏族 | 三河渡辺氏 | 
| 父母 | 父:渡辺守綱、母:平岩親重娘 | 
| 兄弟 |  重綱、宗綱、成綱、渡辺秀綱室、 三田九郎次郎室、渡辺五右衛門室、 彦坂忠元室  | 
    
| 妻 |  正室:水野正重娘 継室:杉浦盛嗣娘  | 
    
| 子 |  勝綱、仲綱、忠綱、治綱、吉綱、 綱貞(三綱)、長綱、石川正光正室、 松平三左衛門室、稲葉正通室  | 
    
渡辺 重綱(わたなべ しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張藩の家老。渡辺半蔵家2代当主。
略歴
天正2年(1574年)渡辺守綱の子として三河国に誕生。天正16年(1588年)、徳川家康に出仕、小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣。慶長15年(1610年)父と共に家康の九男・義直に付属せられ、大坂冬夏両陣では先鋒を務めた。
元和6年(1620年)父・守綱の死去により、三河と近江国の遺領を2代将軍・徳川秀忠より賜り、義直からも尾張国に5000石の知行を賜る。後、同心の知行として7000石を加増される。
寛永18年(1641年)執政(家老)となる。寛永20年(1643年)隠居して家督を四男・治綱に譲り、隠居料として2000石を賜る。
   系譜
- 父:渡辺守綱
 - 母:平岩親重の娘(平岩主計頭親吉の妹)
 - 正室:水野左近大夫正重の娘
 - 継室:杉浦忠右衛門七盛嗣の娘
 - 男子:小半蔵勝綱
 - 男子:忠蔵仲綱
 - 男子:忠七郎忠綱(旗本)
 - 男子:飛騨守治綱(尾張藩家老)
 - 男子:丹後守吉綱(武蔵国野本藩初代藩主)
 - 男子:大隅守綱貞(三綱、江戸南町奉行及び大目付を務めた旗本)
 - 男子:藤蔵長綱(尾張藩重臣)
 - 女子:石川伊賀守正光正室
 - 女子:松平三左衛門室
 - 女子:稲葉右近正通室
 
長男・勝綱は慶長15年(1610年)秀忠に仕え、大坂の陣に出陣、元和元年(1615年)父に先立って没した。次男・仲綱は早世。三男・忠綱は元和元年(1615年)秀忠に仕え、父より3000石の分与を受けるも、元和9年(1623年)父に先立って没した。五男・吉綱は兄忠綱の名跡を継いで元和9年(1623年)秀忠に仕え、後に武蔵野本藩主となる。六男・綱貞は徳川家光に仕えて従五位下大隅守に叙任、江戸南町奉行や大目付等を務めた。のちの延宝8年(1680年)6月27日、大目付を勤めていた頃、越後騒動の裁定に対して徳川綱吉の勘気を被り、改易および八丈島へ遠島処分となった。綱貞の三人の息子も他家へ預けられた。 七男・長綱は重綱の死後、その隠居料だった2000石を相続して尾張藩に仕えることになる。長綱は寛文八年(1668年)九月朔日に享年26で早世するが、長綱の長男・基綱は大名渡辺家を相続して野本藩主及び和泉国伯太藩主となり、次男・定綱は本家で尾張藩万石年寄の渡辺半蔵家を相続することになる。
出典
- 『名古屋市史』
 - 『新訂寛政重修諸家譜』
 
関連作品
- 映画
 
- テレビドラマ
 
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