京極高知
京極高知(きょうごく たかとも) 1572~1622
◇父:京極高佳 室:織田信澄女、毛利秀頼女 子:京極高広、高三、田中満吉 養子:京極(朽木)主膳正高通
近江守護・京極氏一族。兄高次と共に羽柴秀吉に仕えた。1593年舅毛利秀頼の遺領、信濃・伊奈6万石を継いで飯田城主。城下町の整備に尽力。秀吉が死ぬと、徳川家康に味方して越後・上杉氏討伐軍に加わり、美濃・岐阜城攻撃において1番乗りの功を挙げた。関ヶ原の合戦にも参戦し、大谷吉継隊と戦う。戦後、兄高次が籠もる近江・大津城の救援に向かうが、既に開城後であり、謹慎する高次の復帰に奔走した。関ヶ原の戦功により丹後12万3千余石を受け、田辺城に入り、後に宮津城を築城。大坂両陣にも参陣。熱心なキリシタンとしても知られる。
京極高知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 05:34 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2018年12月)
|
|
|
---|---|
![]()
丸亀市立資料館所蔵
|
|
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 元和8年8月12日(1622年9月17日) |
別名 | 羽柴伊奈侍従 |
官位 | 従四位下・侍従、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉、徳川家康、秀忠 |
藩 | 丹後宮津藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高吉、母:京極マリア |
兄弟 | 高次、高知、竜子、松雲院(氏家行広室)、マグダレナ(朽木宣綱室) |
妻 | 津田信澄娘、毛利秀頼娘 惣持院、竹原氏 |
子 | 高広、高三、田中満吉、八条宮智仁親王妃常子、多賀大膳(家臣)某室のち可児政友室、浅井長好(家臣)室、京極高通正室、羽柴長吉某室、 落合守重(家臣)室、氏家行久室、有馬左門某室、 石束出雲某(家臣)室、京極高三養女、沢良政室ら 高通 |
京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。丹後国宮津藩(宮津城)初代藩主。高知流京極家の祖。
生涯
室町幕府の侍所の長官に成れる家柄で出雲・飛騨守護を務める名門京極氏の京極高吉の次男として近江北部に生まれた。早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許された。
信濃の戦国大名
文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の実子秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下・侍従に任ぜられた。また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。
文禄3年(1594年)、戦功により10万石に加増される。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、関ヶ原の戦いでは平塚為広ら大谷吉継隊に対して藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げた。
丹後国主
戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称し丹後藩初代藩主となった。田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。
その後、丹後藩の領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩・峰山藩の3つに分割された。嫡流は宮津7万8200石の領主となったが、3代で改易となる。その後、嫡流子孫は江戸幕府の高家として取り立てられ、幕末まで続く。
田辺藩京極家は3代で丹後田辺から但馬国豊岡へ転封となった。峰山藩京極家は幕末まで転封もなく高知以来の丹後の領地を守り抜き、幾人もの若年寄を出すなど譜代格の大名として処遇され幕政にも参画する重要な家となった。
系譜
- 父:京極高吉(1504年 - 1581年)
- 母:京極マリア(1542年? - 1618年) - 浅井久政次女
- 正室:津田信澄の娘
- 継室:毛利秀頼の娘
- 室:惣持院
- 室:竹原氏
- 室:各務氏
- 生母不明の子女
- 養子
-
関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
登場作品
- テレビドラマ
脚注
- ^ 不明。豊臣秀吉の小姓に同名あり。
外部リンク
- 藤堂高虎・京極高知陣跡 関ケ原町地域振興課
固有名詞の分類
- 京極高知のページへのリンク