松野重元とは? わかりやすく解説

松野重元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/16 08:10 UTC 版)

松野 重元(まつの しげもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は平八。は別に正重(まさしげ)[4]石田三成の偏諱を受けて三正(みつまさ)とも名乗った[2]。官途は主馬首[注釈 1]で、松野主馬の名で知られる。号を道円と称したので、松野道円ともいう。


注釈

  1. ^ しばしば「主馬助」とも誤記[要出典]される。
  2. ^ 鳥取藩の大身藩士・多田家に伝わった松野家の系図(江戸時代中期に松野家から養子を迎えたことにより伝来したとみられる)の紹介記事によると、平介(実名を旦元とする)の跡を弟の平八が継いだ。重元は平八の養子で、実父は馬淵吉綱であるという[6]。同資料によれば天正元年(1573年)誕生、天正3年(1575年)に平八に養われた[7]
  3. ^ 多田家資料によれば、元和7年に土井大炊頭の取持で旗本となり、元和8年に忠長に附けられて5000石を知行したという[6]
  4. ^ 出典[7]では享保7年(1722年)に本多家断絶により浪人とされている。享保7年(1722年)に本多忠村が13歳で病没、減封の上で弟の本多忠烈が嗣いだが、翌享保8年に忠烈も没して無嗣断絶となった。
  5. ^ 一例として、桜樹山人 『武士の鑑 附・北清之花』川流堂、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900161/12 p.12。この書籍では、小早川家からの復帰要請を断り、田中家や駿河大納言家に仕えたことを記している。

出典

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “松野正重”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2020年7月10日閲覧。
  2. ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p. 234.
  3. ^ a b c d 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 2496.
  4. ^ a b c d 太田亮「松野氏」 『姓氏家系大辞典』 第5、国民社、1944年、5655頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956/556 
  5. ^ 高柳 & 松平 1981, pp. 234–235.
  6. ^ a b 鳥取県立博物館 1985, p. 13.
  7. ^ a b c d e f g h 鳥取県立博物館 1985, p. 14.
  8. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年によれば、豊臣賜姓は天正20年(1592年)とされる。
  9. ^ 古地図に見る松田の歴史[リンク切れ]
  10. ^ 高柳 & 松平 1981, p. 235.
  11. ^ 「近世 ニ 村田家の成立」『久保田町史 上巻』(2002年)pp.295-296。この書籍の記述の主関心は龍造寺伯庵である。
  12. ^ 鳥取県立博物館 1985, p. 16.
  13. ^ 鳥取県立博物館 1985, pp. 11, 14.
  14. ^ 堀秀治の越後転封”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2021年9月6日閲覧。
  15. ^ 日置謙『加能外史』(金沢文化協会、1946年)pp.160-161


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