中国戦役
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天正5年(1577年)から始まった中国攻めには、秀吉の譜代衆となった息子・家政と共に従軍した。天正7年(1579年)の播磨三木城攻め(三木の干殺し)では、別所長治、小早川隆景の挟撃をうけた平田城で谷衛好が敗死すると、これの反撃となった大村合戦では小早川勢を撃退して200の首級を挙げて兵糧強奪も果たし、糧米輸送を阻止した。天正8年(1580年)4月24日、広瀬城(長水城)を正勝と家政で攻略して城主・宇野重清を討ち取った(または捕らえた)。この功により、家政には月毛の名馬を、正勝には長水城が与えられて、初めて城主となった。その後、播磨を平定すると、秀吉は黒田官兵衛(孝高)の助言に従って姫路城を本拠として改修し、正勝にも播磨龍野城5万3,000石を与えた。 同年、秀吉は、正勝の娘(後の宝珠院)と黒田孝高の長男・松千代(松寿)丸(後の黒田長政)との婚約を成立させ、左右の重臣の結束を固めた。 天正9年(1581年)、因幡鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)にも従軍し、城を包囲する寄せ手に入った。吉川経家は当初しばしば兵を出して挑発してきていたので、秀吉の命令で加藤清正と正勝で搦め手より強襲したが、これは待ち伏せに遭って撃退された。5ヶ月続いた籠城期間中、正勝は吉岡城、大崎城、鹿野城の降誘を進言してこれを降した。吉川元春が伯耆国に侵攻して、南条元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城を攻めて、経家の雪辱を果たそうと馬山に背水の陣を布いた際には、秀吉は正勝と荒木重堅を派遣して羽衣石城への糧道を確保させたが、正勝は死兵と戦う不利を説き、結局、秀吉は軍を退いて決戦を回避し、両城には応戦せずに堅守に徹するように指示した。 同年11月、秀吉は信長の許可を得て淡路遠征を行った。摂津国尼崎の池田之助が岩屋城を包囲したので、由良城(由良古城)の安宅清康は、秀吉の陣の正勝と伊木忠次(当時は池田恒興家臣)とに投降を申し出て、秀吉および信長に取り次がれて許可されたので、淡路勢は降伏して諸城が開城した。正勝は名代として岩屋城を引き取ったが、この城は池田領となり、羽柴領となった洲本城は仙石秀久に与えられた。 天正10年(1582年)3月、正勝と黒田孝高は、小早川隆景の水軍の将であった乃美宗勝・元信を調略したが、失敗した。4月より備中高松城の戦い(高松の水殺し)が始まるが、この時も2人が清水宗治の陣中へ使者として訪れて降誘させようとしたが、拒否された。 しかし長期包囲・水攻めに窮した毛利勢は最終的に清水宗治、月清、難波宗忠、末近信賀の切腹と開城で和睦を図ることになって、6月3日、それ以外の城兵の助命を秀吉に取りなしてもらうための書状が正勝と杉原家次のもとに届いた。秀吉がこれを許して、翌日に4名が切腹した。ところが、この2日前に本能寺の変ですでに信長は非業の死を遂げており、通説では3日夜に秀吉はこの事実を知って情報が漏れぬように正勝に伝令の使者を監禁するように命じ、続いて各方面から来る伝令は陣中に入れずに途中で迎えて追い返させ、機密の保持を厳命したという。秀吉は正勝と孝高に安国寺恵瓊と協議させて、毛利氏と誓紙を取り交わして和睦を成立させると、5日には陣を引き払って、中国大返しが始まった。 姫路城に帰還した秀吉は、正勝に命じて、すべての金銀米穀を家臣それぞれの知行に応じて分配させた上で、山崎の合戦に臨んだ。合戦において正勝は秀吉本隊の一員として戦い、稲田植元と共に戦功を上げた。 戦後、正勝と黒田孝高は毛利氏との取次役も務めた。本能寺の変の直後に締結された毛利氏と織田氏との和睦に5カ国割譲という条件が含まれていたため、秀吉と毛利氏との関係の再構築は難航した。両名は安国寺恵瓊、林就長らと折衝を重ねて、(織田家の内紛における中断期間を含めて)約3年かけて境を確定させたが、この間、正勝は三度中国に下向して、この大任を全うした。 詳細は「中国国分」を参照
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