毛利氏との関係とは? わかりやすく解説

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毛利氏との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 04:12 UTC 版)

鞆幕府」の記事における「毛利氏との関係」の解説

鞆幕府毛利輝元毛利氏大きく依存した政権でもあった。毛利氏一門吉川経安書き残した天正10年1582年2月13日付の置文冒頭では、「義昭織田信長を討つため、備後国の鞆に動座した。毛利輝元副将軍となり、小早川隆景吉川元春・元長父子は、その権威によって戦い続けている」と記されており、義昭毛利氏をはじめ反信長勢力精神的支柱であったことが伺える。 毛利氏将軍である義昭擁立したことで、信長対決する上で大義名分得て各地大名糾合することができた。毛利氏単独では、信長との戦いで勝機が見いだせず、多く大名味方引き入れる必要があったが、「毛利氏のために合力してほしい」と頼んで応諾してくれる可能性低かった。だが、義昭擁立した結果毛利氏信長との戦いを「将軍家忠義尽くすための戦い」とすることができ、これを内外宣明し、大名らの共感得られるようになった義昭は「天下諸侍の御主」であり、主君忠義尽くすことは、武家社会根幹を成す基本原理でもあった。そして、この「将軍家のために」というスローガン毛利氏のみならず、反信長陣営共通のスローガンとなった毛利氏義昭擁立したことによって、毛利氏の名を広く大名らに知らしめる至り、その名声一気高め、これは信長と戦ううえで大きな利点となった毛利氏信長と戦うにあたっては、各地の反信長勢力とともに戦わねばならず、そのために毛利氏知名度上げる必要があり、義昭存在大きな役割果たした事実小早川隆景後年、「義昭下向したことにより、毛利知らなかった遠国大名たちまでが、毛利挨拶に来るようになった」、と述懐している。 毛利氏また、義昭各地大名との間を仲介してもらえるようになった毛利氏信長と戦うにあたり、他の大名との間に十分な人脈持っていなかったが、義昭がその仲介担った毛利氏天正4年以前安芸から遠く離れた越後の上杉氏とほとんど接触したことがなかった一方義昭将軍就任前から接触があり、幕臣はしばし使者として上杉氏のもとに訪れた者もいた。義昭はそうした人脈駆使し毛利氏同盟する大名との仲介行い双方意思疎通円滑にむように取り計らった。これにより、毛利氏天正4年以降上杉氏をはじめ多く大名連携し信長と戦うことになった毛利氏同盟する大名との外交でも大きなメリット得た大名同士での外交は、どちらの格上でどちら格下か、が極めて重要であり、自分の格に関してはとても敏感であったそれゆえ毛利氏上から目線態度取れば外交問題発展する可能性もあったが、義昭存在がそれを解決した毛利氏信長と戦うにあたり対等両敬にあった大名への協力を必要としたが、彼らに何かを要求するとき、その代弁者として義昭利用した義昭将軍であり、毛利氏同盟する大名は皆、義昭主君として仰いでいたため、義昭から大名らに伝達する形を取られた。また、義昭各地出した御内書には、輝元の副状添えられていた。 輝元は副将軍として義昭庇護することにより、毛利軍公儀軍隊中核として位置づけ西国諸大名の上位に君臨する正統性確保した。これにより、毛利氏の支配領域である中国地方北四国北九州さらには丹波摂津一部に及ぶ広大な領域影響力行使したとはいえ、輝元が自身副将軍認識していたことに関しては、あくまで毛利側の自己認識に基づくものであったとする見方もある。毛利氏上杉氏武田氏石山本願寺同盟していた勢力よりも上位にあったわけではなく各地大名らに上位存在認識されていたわけでもないまた、主君準ずる立場にあったわけでもないそれゆえ毛利氏同盟する大名直接命令下せたわけでもない一方、輝元が自らを副将軍として位置づけたことを、輝元自身当時の人々時代遅れ行動をしているという意識全くなかったとする見方もある。かつて、毛利氏主家であった大内氏足利義稙擁して上洛し、復位させたことにより、海外貿易利権握ること成功していたこともあって、その先例に倣おうとしたとされる毛利氏義昭奉じたことにより、一定のデメリット享受しなければならなくなった毛利氏義昭侍臣らを養わなければならず、鞆にいる義昭侍臣主なものだけでも50人以上に及んだ毛利氏義昭要望従い毛利氏諸将分担して彼らを養っている。 また、毛利氏義昭の上意をそれなりに尊重しなければならなくなった義昭毛利氏にさまざま上意下したが、その内容軍事作戦にまで及んでいた。義昭の上意に強制力はなかったが、毛利氏義昭から便宜受けている以上、その意向を完全にできなかった。そのため、輝元も配下諸将義昭の上意による軍事作戦伝えており、義昭意向一定の割合受容されていた。 さらに、毛利氏義昭擁したことによって、毛利家中において、義昭と輝元という「二人君主」を生み出す危険性もあった。それは、義昭が輝元の頭越しに、毛利氏諸将結びつき毛利家中を二分するということである。だが、義昭は輝元に配慮し毛利氏諸将栄典褒詞与える際には、輝元を介して賜与している。とはいえ毛利氏義昭擁立する限り、この危険性から完全に開放されることはなかった。 義昭最前線で戦う毛利氏諸将に対して、しばしば侍臣派遣し激励させている。たとえば、義昭上月城の戦いの際、城を包囲する毛利氏の陣に真木島昭光派遣し、その将兵ねぎらうとともに小林家孝を駐留督戦させた。吉川元長はこれに感激し親し僧侶義昭への感謝言葉記した手紙送っている。このように義昭激励毛利氏諸将奮起し戦意を保つことができた。 義昭信長方の武将荒木村重調略にも一役買っている。義昭配下小林家孝が毛利氏武将とともに重のもとを訪れ毛利氏に帰順するように説得した。これにより、重は毛利氏寝返った。輝元は重の帰順喜び、家孝に褒詞与え、その功績称えたという。

※この「毛利氏との関係」の解説は、「鞆幕府」の解説の一部です。
「毛利氏との関係」を含む「鞆幕府」の記事については、「鞆幕府」の概要を参照ください。

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