毛利氏との関係
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鞆幕府は毛利輝元ら毛利氏に大きく依存した政権でもあった。毛利氏の一門・吉川経安が書き残した天正10年(1582年)2月13日付の置文の冒頭では、「義昭は織田信長を討つため、備後国の鞆に動座した。毛利輝元は副将軍となり、小早川隆景と吉川元春・元長父子は、その権威によって戦いを続けている」と記されており、義昭が毛利氏をはじめ反信長勢力の精神的支柱であったことが伺える。 毛利氏は将軍である義昭を擁立したことで、信長と対決する上での大義名分を得て、各地の大名を糾合することができた。毛利氏単独では、信長との戦いで勝機が見いだせず、多くの大名を味方に引き入れる必要があったが、「毛利氏のために合力してほしい」と頼んでも応諾してくれる可能性は低かった。だが、義昭を擁立した結果、毛利氏は信長との戦いを「将軍家に忠義を尽くすための戦い」とすることができ、これを内外に宣明し、大名らの共感を得られるようになった。義昭は「天下諸侍の御主」であり、主君に忠義を尽くすことは、武家社会の根幹を成す基本原理でもあった。そして、この「将軍家のために」というスローガンは毛利氏のみならず、反信長陣営共通のスローガンとなった。 毛利氏は義昭を擁立したことによって、毛利氏の名を広く大名らに知らしめるに至り、その名声を一気に高め、これは信長と戦ううえで大きな利点となった。毛利氏が信長と戦うにあたっては、各地の反信長勢力とともに戦わねばならず、そのために毛利氏の知名度を上げる必要があり、義昭の存在は大きな役割を果たした。事実、小早川隆景が後年、「義昭が下向したことにより、毛利を知らなかった遠国の大名たちまでが、毛利に挨拶に来るようになった」、と述懐している。 毛利氏はまた、義昭に各地の大名との間を仲介してもらえるようになった。毛利氏は信長と戦うにあたり、他の大名との間に十分な人脈を持っていなかったが、義昭がその仲介を担った。毛利氏は天正4年以前、安芸から遠く離れた越後の上杉氏とほとんど接触したことがなかった一方、義昭は将軍就任前から接触があり、幕臣にはしばしば使者として上杉氏のもとに訪れた者もいた。義昭はそうした人脈を駆使し、毛利氏と同盟する大名との仲介を行い、双方の意思疎通が円滑に進むように取り計らった。これにより、毛利氏は天正4年以降、上杉氏をはじめ多くの大名と連携し、信長と戦うことになった。 毛利氏は同盟する他大名との外交でも大きなメリットを得た。大名同士での外交は、どちらの格上でどちら格下か、が極めて重要であり、自分の格に関してはとても敏感であった。それゆえ、毛利氏が上から目線の態度を取れば、外交問題に発展する可能性もあったが、義昭の存在がそれを解決した。毛利氏は信長と戦うにあたり、対等・両敬にあった他大名への協力を必要としたが、彼らに何かを要求するとき、その代弁者として義昭を利用した。義昭は将軍であり、毛利氏と同盟する大名は皆、義昭を主君として仰いでいたため、義昭から大名らに伝達する形を取られた。また、義昭が各地に出した御内書には、輝元の副状が添えられていた。 輝元は副将軍として義昭を庇護することにより、毛利軍を公儀の軍隊の中核として位置づけ、西国の諸大名の上位に君臨する正統性を確保した。これにより、毛利氏の支配領域である中国地方、北四国、北九州、さらには丹波、摂津の一部に及ぶ広大な領域に影響力を行使した。 とはいえ、輝元が自身を副将軍と認識していたことに関しては、あくまで毛利側の自己認識に基づくものであったとする見方もある。毛利氏は上杉氏や武田氏、石山本願寺ら同盟していた勢力よりも上位にあったわけではなく、各地の大名らに上位の存在と認識されていたわけでもない。また、主君に準ずる立場にあったわけでもない。それゆえ、毛利氏は同盟する大名に直接命令を下せたわけでもない。 一方、輝元が自らを副将軍として位置づけたことを、輝元自身や当時の人々は時代遅れの行動をしているという意識は全くなかったとする見方もある。かつて、毛利氏の主家であった大内氏は足利義稙を擁して上洛し、復位させたことにより、海外貿易の利権を握ることに成功していたこともあって、その先例に倣おうとしたとされる。 毛利氏は義昭を奉じたことにより、一定のデメリットを享受しなければならなくなった。毛利氏は義昭や侍臣らを養わなければならず、鞆にいる義昭の侍臣は主なものだけでも50人以上に及んだ。毛利氏は義昭の要望に従い、毛利氏の諸将が分担して彼らを養っている。 また、毛利氏は義昭の上意をそれなりに尊重しなければならなくなった。義昭は毛利氏にさまざま上意を下したが、その内容は軍事作戦にまで及んでいた。義昭の上意に強制力はなかったが、毛利氏は義昭から便宜を受けている以上、その意向を完全にできなかった。そのため、輝元も配下の諸将に義昭の上意による軍事作戦を伝えており、義昭の意向が一定の割合で受容されていた。 さらに、毛利氏が義昭を擁したことによって、毛利家中において、義昭と輝元という「二人の君主」を生み出す危険性もあった。それは、義昭が輝元の頭越しに、毛利氏の諸将と結びつき、毛利家中を二分するということである。だが、義昭は輝元に配慮し、毛利氏の諸将に栄典や褒詞を与える際には、輝元を介して賜与している。とはいえ、毛利氏は義昭を擁立する限り、この危険性から完全に開放されることはなかった。 義昭は最前線で戦う毛利氏の諸将に対して、しばしば侍臣を派遣し、激励させている。たとえば、義昭は上月城の戦いの際、城を包囲する毛利氏の陣に真木島昭光を派遣し、その将兵をねぎらうとともに、小林家孝を駐留・督戦させた。吉川元長はこれに感激し、親しい僧侶に義昭への感謝の言葉を記した手紙を送っている。このように、義昭の激励で毛利氏の諸将は奮起し、戦意を保つことができた。 義昭は信長方の武将・荒木村重の調略にも一役買っている。義昭の配下・小林家孝が毛利氏の武将とともに、村重のもとを訪れ、毛利氏に帰順するように説得した。これにより、村重は毛利氏に寝返った。輝元は村重の帰順に喜び、家孝に褒詞を与え、その功績を称えたという。
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