吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦いとは? わかりやすく解説

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吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:04 UTC 版)

熊谷信直」の記事における「吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い」の解説

天文9年1540年)、出雲戦国大名尼子詮久(後の尼子晴久)が安芸侵攻毛利元就居城吉田郡山城へと攻め寄せた。また牛尾幸清が兵2,000率いて佐東銀山城入り周辺うかがった籠城しながらも、毛利元就神出鬼没戦いぶり尼子軍翻弄し大内氏援軍として陶隆房が兵10,000率いて来ると、翌10年1541年)に尼子詮久撤退した。信直は三入高松城守っていたが、佐東銀山城内の牛尾幸清撤退するに及び、八木城主・香川光景追撃をかけるが、間に合わなかった(吉田郡山城の戦い)。 同年5月には元就の命に従い宍戸隆家香川光景らと旧主安芸武田氏攻撃佐東銀山城包囲してついに落城させ、安芸武田氏当主武田信実出雲逃亡した。これにより、鎌倉時代より続いた安芸武田氏終焉迎えた天文11年1542年)、大内義隆勢力衰えた尼子氏を討つべく山口出陣途中三入庄の観音寺宿泊して出雲侵攻した赤穴城戦いで熊谷勢は苦境に立たされ、信直の弟・直続が討死した。その後月山富田城包囲攻撃するも、吉川興経らの寝返りもあり、結局月山富田城攻略失敗熊谷勢も無残な退却戦となり、香川光景と共に退却していたが、出雲ノ巣川で一揆衆の襲撃を受け、乱戦の後に死地脱した月山富田城の戦い)。 天文16年1547年)には娘の芳新庄局)を毛利元就次男吉川元春に嫁がせ、毛利氏との関係強化し一門衆として扱われるようになった

※この「吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い」の解説は、「熊谷信直」の解説の一部です。
「吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い」を含む「熊谷信直」の記事については、「熊谷信直」の概要を参照ください。

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