毛利氏に従属、関ヶ原の後に広島藩士へ
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「三吉氏」の記事における「毛利氏に従属、関ヶ原の後に広島藩士へ」の解説
大内義隆が大寧寺の変で自害すると、当主の三吉隆亮(たかすけ)は天文22年(1553年)に父の三吉致高とともに自立性を保ちながら毛利元就に従属した。また、三吉致高の娘(一族の娘とも)を元就の側室とした。毛利氏に従属後は、その家臣として中国地方各地に出陣し、多くの戦功を挙げた。三吉広高は天正19年(1591年)頃に比熊山城を築き、新たに居城とし、その出城を現尾関山公園のあるところに設置した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦したが、不戦敗を喫して毛利氏は防長移封となった。広高はこれに従わずに浪人して京都に上り、後に安芸広島藩主となった浅野氏に取り立てられた。以降、三吉氏はそのまま広島藩士として浅野氏に仕えた家系と、長府藩士として再び毛利氏に仕えた家系とに分かれて続いた。長府藩士の家系からは幕末の志士、三吉慎蔵(三吉時治)が出ている。
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