三吉広高
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永11年10月18日(1634年12月8日)[1] |
別名 | 通称:太郎[2]→新兵衛尉[3] 斎号:荺斎 |
戒名 | 香林院殿陽山昌益大居士[1]、筠辨昌奕[4] |
墓所 | 松雲山西江寺(広島県三次市三次町)[4] |
官位 | 式部少輔[4]、式部大輔 |
主君 | 毛利輝元→浅野長晟 |
藩 | 萩藩(長州藩)→広島藩 |
氏族 | 藤姓三吉氏[5] |
父母 | 父:三吉隆亮[5] |
兄弟 | 広高[4]、隆信[4]、隆勝[4]、隆俊[4]、式部卿[4] |
子 | 元高[4]、新兵衛[6] |
三吉 広高(みよし ひろたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。備後国三次郡三吉郷[注釈 1]の比叡尾山城を本拠とする国人・三吉氏の当主。三吉隆亮の長男。通称は新兵衛尉。
生涯
備後国三次郡三吉郷[注釈 1]の比叡尾山城を本拠とする国人である三吉隆亮に長男として生まれる[4]。
元亀4年(1573年)4月10日、父・隆亮と共に、毛利元就・隆元父子の代以来の毛利氏と三吉氏の盟約を確認する起請文を毛利輝元と交換した[2]。このことから、三吉氏はこの時期においてもなお自立的性格を有していたことが分かる[7]。
天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われた豊臣秀吉の九州平定において、嫡男の三吉元高と共に九州に出陣した[8][9][10]。
天正16年(1588年)5月16日に父・隆亮が死去し[7]、その後を継いだ[4]。同年閏5月28日に広高は城福寺某を使者として高野山金剛峯寺の塔頭寺院である小坂坊に書状を2通送って、前年は九州に出陣していたため書状に返事が出来なかったことを詫びて銀子1包を送ると共に[9][10]、父・隆亮の死去を報じて、内々にお頼みしているので御入魂に預かれれば本望であると伝えている[11][12]。
天正18年(1590年)10月16日、嫡男の三吉元高と共に吉川広家と兄弟の契約を結ぶ起請文を作成し提出し[3]、同日に三吉氏家臣の祝亮俊を使者として吉川氏家臣の今田経高に太刀一腰、河原毛の馬一疋、樽肴を贈り[13]、元高は太刀一腰、馬一疋を贈っている[14]。今田経高は今田春佳を使者として吉川広家からの起請文を送ると共に、広高に太刀一腰、栗毛の馬一疋、二大の樽三折、元高に金の太刀一腰、馬、大樽二荷二折を贈っており、10月26日に広高と元高はそれぞれ返礼の書状を今田経高に送っている[15][16]。また、今田春佳も祝亮俊に対して太刀一腰と銅銭200疋を贈っており、祝亮俊は10月26日に返礼の書状を送っている[17]。
天正19年(1591年)、後見人である叔父の粟屋隆信を謀殺。同年、居城を比叡尾山城から比熊山城に移した[18]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより毛利氏が周防国と長門国の2ヶ国に減封となると、毛利氏家臣団の所領も減らされることとなった[19]。所領の減少は元々の石高の5分の1にすることを基本としているが、一律5分の1にすることは困難であり[注釈 2]、元々は10939石であった三吉氏は10分の1以下に減らされた[20]。この時の石高の減少に不満を持った毛利氏家臣が何人も出奔しており[注釈 3]、三吉氏では広高の子の新兵衛を残して、広高や元高らは毛利氏を離れることとなった[6]。
毛利氏を離れて牢人となった広高は京都に上り、南禅寺の和尚である平田荺の徳を慕って出家し、「荺斎」と号した[21]。その後、広島藩主・浅野長晟に迎えられて広島に住み[1]、200石を領した。なお、元高は姫路藩主となった池田輝政に仕官して、関ヶ原の戦い以前の石高を上回る12000石を与えられている[6]。
寛永11年(1634年)10月18日に死去[1]。広高の墓は、広島県三次市三次町にある三吉氏の菩提寺で、南禅寺の平田荺が開山となった松雲山西江寺の境内に現存している[22]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, p. 454.
- ^ a b 『毛利家文書』第328号、元亀4年(1573年)4月10日付け、毛利少輔太郎(輝元)殿宛て、三吉太郎廣高・三吉安房守隆亮連署起請文。
- ^ a b 『吉川家文書』第920号、天正18年(1590年)10月16日付け、(吉川)廣家様宛て、三吉新兵衛尉廣高・三吉式部太輔元高連署起請文。
- ^ a b c d e f g h i j k 萩藩諸家系譜 1983, p. 782.
- ^ a b 萩藩諸家系譜 1983, p. 781.
- ^ a b c d 光成準治 2016, p. 305.
- ^ a b 舘鼻誠 1986, p. 281.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 360.
- ^ a b 高野山文書 第6巻 1941, p. 223.
- ^ a b 『高野山文書』「持明院文書」第212号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。
- ^ 高野山文書 第6巻 1941, p. 224.
- ^ 『高野山文書』「持明院文書」第213号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。
- ^ 『吉川家文書』第921号、天正18年(1590年)比定10月16日付け、今田中務少輔(経高)殿宛て、三吉新兵衛尉廣高書状。
- ^ 『吉川家文書』第923号、天正18年(1590年)比定10月16日付け、今田中務少輔(経高)殿宛て、三吉式部太輔元高書状。
- ^ 『吉川家文書』第922号、天正18年(1590年)比定10月26日付け、今田中務少輔(経高)殿宛て、三吉新兵衛尉廣高書状。
- ^ 『吉川家文書』第924号、天正18年(1590年)比定10月26日付け、今田中務少輔(経高)殿宛て、三吉式部太輔元高書状。
- ^ 『吉川家文書』第925号、天正18年(1590年)比定10月26日付け、今田安右衛門尉(春佳)殿宛て、祝勘左衛門尉亮俊書状。
- ^ 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, p. 364.
- ^ 光成準治 2016, p. 304.
- ^ a b 光成準治 2016, pp. 304–305.
- ^ 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, pp. 338, 454.
- ^ 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, pp. 450, 454.
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第9-2 吉川家文書之二』東京帝国大学、1926年9月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 高野山史編纂所、中田法壽 編『高野山文書 第6巻 舊學侶方一派文書』高野山文書刊行会、1941年3月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 編『広島県双三郡・三次市史料総覧 第5篇』広島県双三郡・三次市史料総覧刊行会、1974年12月。全国書誌番号:73021691。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:
82051060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。
NCID BN01905560。全国書誌番号:
84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 光成準治『毛利輝元 ―西国の儀任せ置かるの由候―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。 ISBN 978-4-623-07689-5。
関連項目
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