三吉隆亮
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正16年5月16日(1588年6月9日)[1] |
戒名 | 峻功院陽厳常慶[1][2] |
墓所 | 三吉家墓所(広島県三次市畠敷町)[1] |
官位 | 式部少輔[2]、安房守[2] |
主君 | 大内義隆→毛利隆元→輝元 |
氏族 | 藤姓三吉氏[3] |
父母 | 父:三吉致高[3] |
兄弟 | 隆亮、粟屋隆信、三吉氏(毛利元就の継室)? |
子 | 広高[2]、隆信[2]、隆勝[2]、隆俊[2]、式部卿[2] |
三吉 隆亮(みよし たかすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備後国三次郡三吉郷[注釈 1]の比叡尾山城を本拠とする国人・三吉氏の当主。はじめは大内氏に属し、後に毛利氏に属する。
生涯
備後国三次郡三吉郷[注釈 1]の比叡尾山城を本拠とするの国人である三吉氏の当主・三吉致高の子として生まれる[3]。大内義隆から「隆」の偏諱を与えられ、隆亮と名乗った。
三吉氏が毛利氏に属する以前から、一族の女性もしくは隆亮の妹である三吉氏が毛利元就の継室となっており、天文21年(1552年)に元就の五男・毛利元秋、天文24年(1555年)に六男・出羽元倶、永禄3年(1560年)に八男・末次元康を生んでいる。
天文22年(1553年)4月3日、父の致高と共に毛利元就・隆元父子に面会し、忠勤を誓約する起請文を提出して毛利氏に帰属した[4][5]。三吉氏は天文年間末には備後国で6000余石を領したとされる[4]。
弘治3年(1557年)12月2日に毛利元就・隆元父子と毛利氏に属する備後国の諸領主が連名で乱暴狼藉を行った兵に対する処罰や勝手な陣払いの禁止を誓約した傘連判状形式の起請文に「三吉式部少輔隆亮」と署名している[注釈 2][6]。
永禄2年(1559年)に備中国へ出陣し、同年5月9日に毛利元就・隆元父子は粟屋元堅を使者として隆亮に礼を述べる書状を送っている[7]。
永禄4年(1561年)10月4日付けの厳島神社大鳥居の棟札写では、毛利氏一門、安芸国や備後国の国人、毛利氏家臣の順で名前が並んでいるが、毛利元就、毛利隆元、小早川隆景、吉川元春に次いで「備州 三吉式部少輔 隆亮」と署名している[注釈 3][8][9]。
永禄5年(1562年)には尼子氏と戦うため石見国や出雲国に出陣しており、同年7月28日に毛利元就らが出雲国飯石郡赤穴に進軍したのに続いて、翌7月29日に隆亮も赤穴に陣を進めている[10]。また、同日には竺雲恵心に宛てて、石見国や出雲国の情勢等を伝える書状を送っている[10]。
元就死去後の元亀4年(1573年)4月10日には、嫡男の広高と共に、元就・隆元以来の盟約を確認する起請文を毛利輝元と交わしており[11]、毛利氏に属した後も自立的な性格を有していた[4]。
隆亮や広高は高野山金剛峯寺の小坂坊と書状のやり取りを行っており、年不詳であるが、隆亮は家臣の祝亮俊を取次として小坂坊に逆修(生前供養)の相談を行っている[12][13][14]。
天正16年(1588年)5月16日に死去[1][4]。嫡男の広高が後を継いだ[2]。
隆亮死去の翌月の閏5月28日に広高は城福寺某を使者として高野山金剛峯寺の塔頭寺院である小坂坊に書状を2通送って、前年は九州に出陣していたため書状に返事が出来なかったことを詫びて銀子1包を送ると共に[15][16]、父・隆亮の死去を報じて、内々にお頼みしているので御入魂に預かれれば本望であると伝えている[17][18]。
偏諱を与えた人物
- 祝亮俊
脚注
注釈
- ^ a b 現在の広島県三次市畠敷町。
- ^ この傘連判状に署名した人物は、毛利元就から時計回りに、毛利元就、田総元里、古志豊綱、楢崎信景、新見元致、芥川元正、湯浅元宗、安田元資、毛利隆元、和智誠春、高屋信春(馬屋原信春)、柚谷元家、杉原隆盛、有地隆信、上原豊将、長元信、里資(名字不明)、三吉隆亮の18名[6]。
- ^ 棟札に名を連ねた毛利氏の人物は、毛利元就、毛利隆元、小早川隆景、吉川元春、三吉隆亮、宍戸隆家、熊谷信直、阿曽沼広秀、天野元定、平賀広相、天野隆重、桂元澄、口羽通良、赤川元保、赤川元久、粟屋元親、国司元相、児玉就忠、児玉就方、児玉就秋、児玉元良、粟屋元種、岡光良、赤川元秀、粟屋元通、渡辺就国、兼重元宣、佐藤元実、佐武美久。
出典
- ^ a b c d 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 1974, p. 453.
- ^ a b c d e f g h i 萩藩諸家系譜 1983, p. 782.
- ^ a b c 萩藩諸家系譜 1983, p. 781.
- ^ a b c d 舘鼻誠 1986, p. 281.
- ^ 『毛利家文書』第223号、天文22年(1553年)4月3日付け、毛利右馬頭(元就)殿・毛利備中守(隆元)殿宛て、三吉式部少輔隆亮・三吉安房守致高連署起請文。
- ^ a b 『毛利家文書』第225号、弘治3年(1557年)12月2日付け、毛利氏親類衆年寄衆幷家人連署起請文案。
- ^ 『閥閲録』巻109「三吉与一右衛門」第1号、永禄2年(1559年)比定5月9日付け、三吉式部少輔(隆亮)殿 御宿所宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署状。
- ^ 広島県史 古代中世資料編3 1978, pp. 1257–1260.
- ^ 『広島県史』所収「大願寺文書」第119号、永禄4年(1561年)10月4日付け、厳島社大鳥居棟札写。
- ^ a b 『閥閲録遺漏』「浄専寺什書」、永禄5年(1562年)比定7月29日付け、心東堂 衣鉢閣下(竺雲恵心)宛て、(三吉)隆亮書状。
- ^ 『毛利家文書』第328号、元亀4年(1573年)4月10日付け、毛利少輔太郎(輝元)殿宛て、三吉太郎廣高・三吉安房守隆亮連署起請文。
- ^ 高野山文書 第6巻 1941, pp. 221–223.
- ^ 『高野山文書』「持明院文書」第210号、年不詳5月16日付け、高野山小坂坊宛て、三吉安房守隆亮書状。
- ^ 『高野山文書』「持明院文書」第211号、年不詳6月5日付け、高野山小坂坊宛て、三吉安房守隆亮書状。
- ^ 高野山文書 第6巻 1941, p. 223.
- ^ 『高野山文書』「持明院文書」第212号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。
- ^ 高野山文書 第6巻 1941, p. 224.
- ^ 『高野山文書』「持明院文書」第213号、天正16年(1588年)比定閏5月28日付け、高野山小坂坊宛て、三吉式部太輔廣高書状。
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 高野山史編纂所、中田法壽 編『高野山文書 第6巻 舊學侶方一派文書』高野山文書刊行会、1941年3月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 広島県双三郡・三次市史料総覧編修委員会 編『広島県双三郡・三次市史料総覧 第5篇』広島県双三郡・三次市史料総覧刊行会、1974年12月。全国書誌番号:73021691。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 広島県 編『広島県史 古代中世資料編3』広島県、1978年3月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。
NCID BN01905560。全国書誌番号:
84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻109「三吉与一右衛門」
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録遺漏』
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