尼子氏と大内氏とは? わかりやすく解説

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尼子氏と大内氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/11 14:21 UTC 版)

多賀山通続」の記事における「尼子氏と大内氏」の解説

大永6年1526年)、備後国守護山名誠豊下知によって尼子氏から離反したため、以後尼子経久と戦うこととなり、享禄元年1528年9月9日には尼子軍居城山城包囲した。通続らはよく防戦したが、享禄2年1529年7月19日から7月20日にかけて、惣固屋と呼ばれる仮設小屋戦っていた多賀山氏の兵たちの兵粮尽き味方の陣に帰還する者もいたが、敵陣の方へ落ちて行った者は皆討ち取られてしまった。この時通続のもとに残っていたのは、江木二郎江木善左衛門尉、白根若狭白根雅楽助白根豊後白根九郎左衛門尉水間伊賀大嶋河内湯浅肥前田邊四郎左衛門尉田邊五郎兵衛であり、さらに3日持ちこたえたものの包囲脱する決めたその時にわかに大風となり、それに乗じて囲み突破することに成功。しかし、尼子軍の追撃激しく江木善左衛門尉、白根雅楽助白根豊後水間伊賀田邊四郎左衛門尉追手防ぎ戦死した後年永禄2年1559年12月に通続は、これらの家臣働き大功として子孫まで目をかけるべきであると書き残している。なお、大内氏家臣弘中隆包大内義隆山城陥落報じ享禄2年1529年7月26日に義隆は弘中隆包派遣して毛利元就山城陥落報せている。 その後、通続は山城帰還したが、天文4年1535年)に尼子方に転じたことで毛利元就山城包囲され、通続は急使備前赤松氏派遣して救援求め頑強に抵抗した元就包囲厳重にして糧道を断つ持久策を取り城中兵粮が不足。特に二の丸が最も不足していたため、通続は本丸と二の丸の間に、兵粮入れた瓢箪付けた長さ数町の大綱張って二の丸兵粮運び僅かながらも二の丸兵粮補給する策をとった。これに対して元就の命を受けた桂元澄大矢によって巧みに大綱切断したことで兵粮欠乏度合い高まり、かつ赤松氏援軍が来るか不確実であったために士気低下し、通続は開城申し出ることとなる。 天文10年1540年)の吉田郡山城の戦い尼子晴久毛利元就吉田郡山城攻略失敗し天文10年1541年11月13日には尼子経久死去した。これを好機見た通続、三吉隆亮山内隆通福屋隆兼吉川興経宮若狭守、三刀屋久扶宍道隆慶三沢為清本城常光河津民部左衛門古志清左衛門尉などの備後安芸石見出雲の国人たちは陶隆房(晴賢)に、大内義隆が自ら出雲国侵攻するならば大内方味方する旨の書状書き送った。これにより、天文11年1542年)から天文12年1543年)にかけて大内義隆出雲遠征が行われ隆続も従ったが、三沢為清三刀屋久扶吉川興経本城常光山内隆通らが再び尼子方に転じたことで大内軍が敗北すると、通続も再び尼子方に帰順した天文18年1549年2月26日大檀那として恵蘇郡南大八幡宮社殿造立する。

※この「尼子氏と大内氏」の解説は、「多賀山通続」の解説の一部です。
「尼子氏と大内氏」を含む「多賀山通続」の記事については、「多賀山通続」の概要を参照ください。

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