尼子氏の滅亡
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永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏の当主・毛利元就は、尼子氏を滅ぼすため出雲へ進軍する。元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていき、永禄5年12月(1563年1月)には島根半島の荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを開始する。 この毛利軍の侵攻に対し、尼子軍は各地で戦いを繰り広げつつ激しく抵抗していった。しかしながら、永禄6年10月(1563年11月)に島根半島に位置する補給要衝・白鹿城を毛利軍によって奪われると(白鹿城の戦い)、続いて永禄8年(1565年)初頭には西伯耆一円を毛利軍によって支配され、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立する。 こうして尼子軍の補給経路を絶ったうえで毛利軍は、永禄8年4月(1565年5月)に洗合から星上山(現在の島根県松江市八雲町東岩坂)へ本陣を移すと、月山富田城への攻撃を開始する。毛利軍は城下で麦薙ぎを行うとともに、同月17日(5月16日)には月山富田城へ総攻撃を行った(第二次月山富田城の戦い)。この攻撃は尼子軍の抵抗により失敗に終わるも、その後、毛利軍は兵糧攻めの作戦に切り替えて月山富田城への圧力を強めていった。 永禄9年11月21日(1567年1月1日)、居城である月山富田城を毛利軍によって包囲されていた尼子家当主・尼子義久は、これ以上戦うことはできないと判断し毛利氏に降伏する。同月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名・尼子氏は一時的に滅びることとなる。居城であった月山富田城、及び尼子氏の所領は毛利氏の支配下に置かれることとなり、義久とその兄弟3人は一部の従者と共に円明寺(現在の広島県安芸高田市向原町長田)へ連行され幽閉の身となった。その他の尼子家臣らは出雲から追放され牢人となる。
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尼子氏の滅亡
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永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲国へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大内氏を滅ぼし、防長(周防国と長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国を勢力下に治め、中国地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、当主であった尼子晴久が永禄3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。 毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。 永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。 9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。 永禄7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関・弓浜で戦い、幸盛もこれに参戦する(弓浜合戦)。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。 永禄8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下で麦薙ぎをおこない月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川将員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った。 永禄9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なかった。 11月21日(1567年1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。
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