尼子氏の滅亡とは? わかりやすく解説

尼子氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)

布部山の戦い」の記事における「尼子氏の滅亡」の解説

永禄5年7月3日1562年8月2日)、毛利氏当主毛利元就は、尼子氏を滅ぼすため出雲進軍する元就率いられ毛利軍出雲入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていき、永禄5年12月1563年1月)には島根半島の荒隈(洗合)へ本陣構え尼子氏居城月山富田城攻め開始する。 この毛利軍侵攻対し尼子軍各地戦い繰り広げつつ激しく抵抗していった。しかしながら永禄6年10月1563年11月)に島根半島位置する補給要衝白鹿城毛利軍によって奪われると(白鹿城の戦い)、続いて永禄8年1565年初頭には西伯耆一円毛利軍によって支配され尼子氏居城月山富田城は完全に孤立する。 こうして尼子軍補給経路絶ったうえで毛利軍は、永禄8年4月1565年5月)に洗合から星上山(現在の島根県松江市八雲町東岩坂)へ本陣を移すと、月山富田城への攻撃開始する毛利軍城下で麦薙ぎを行うとともに同月17日5月16日)には月山富田城総攻撃行った第二次月山富田城の戦い)。この攻撃尼子軍抵抗により失敗に終わるも、その後毛利軍兵糧攻め作戦切り替えて月山富田城への圧力強めていった。 永禄9年11月21日1567年1月1日)、居城である月山富田城毛利軍によって包囲されていた尼子家当主尼子義久は、これ以上戦うことはできない判断し毛利氏降伏する同月28日1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏一時的に滅びることとなる。居城であった月山富田城、及び尼子氏所領毛利氏の支配下に置かれることとなり、義久とその兄弟3人は一部従者と共に円明寺現在の広島県安芸高田市向原町長田)へ連行され幽閉の身となったその他の尼子家臣らは出雲から追放され牢人となる。

※この「尼子氏の滅亡」の解説は、「布部山の戦い」の解説の一部です。
「尼子氏の滅亡」を含む「布部山の戦い」の記事については、「布部山の戦い」の概要を参照ください。


尼子氏の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:14 UTC 版)

山中幸盛」の記事における「尼子氏の滅亡」の解説

永禄5年7月3日1562年8月2日)、毛利氏尼子氏を滅ぼすため出雲国進軍する毛利氏は去る天文4年10月1日1555年10月16日)に陶晴賢厳島の戦いで破ると、弘治3年1557年)には大内氏滅ぼし防長周防国長門国)を新たに支配していた。また、永禄5年6月には石見国勢力下に治め中国地方一大勢力となっていた。一方尼子氏は、当主であった尼子晴久永禄3年12月24日1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男義久が跡を継いでいたが、外交政策失敗等もあり勢力衰えつつあった。 毛利元就率いられ毛利軍出雲入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永禄5年12月1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣構え尼子氏居城月山富田城攻め本格化させる。 永禄6年8月13日1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城攻撃開始する。この白鹿城は、宍道湖北岸位置し日本海面した島根半島月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上で重要な拠点であった9月21日10月8日)、尼子氏白鹿城救援するため、尼子倫久大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する戦いの結果毛利軍勝利し尼子軍月山富田城撤退した白鹿城の戦い)。退却の際、軍の後陣控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を担当し追撃する吉川元春小早川隆景両軍7度わたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城10月中旬頃に落城している 。 永禄7年1564年)、尼子軍杉原盛重率い毛利軍美保関・弓浜で戦い、幸盛もこれに参戦する弓浜合戦)。このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆国拠点確保勢力挽回努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点1つである尾高城戦いで毛利軍敗れた以後伯耆国毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍各地敗れつつ補給の道を絶たれ尼子氏居城月山富田城は完全に孤立化していくのである永禄8年4月1565年5月)、毛利軍は、月山富田城北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣構えると、城下で麦薙ぎおこない月山富田城攻撃開始する4月17日5月16日)、毛利軍月山富田城総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退したまた、この戦いで幸盛は、高野監物一騎討ち討ち取った4月28日5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した9月毛利軍は再び月山富田城攻めた。この戦いで幸盛は品川将員一騎討ち討ち取った山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滞在していた小河内幸綱ら率い毛利軍夜討ちし、多数の兵を討ち取った永禄9年5月24日1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出来なかった。 11月21日1567年1月1日)、城内兵糧欠乏し将兵逃亡者相次いだため、これ以上戦うことが出来ない判断した尼子義久は、毛利軍降伏申し出る。そして11月28日1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦国大名尼子氏一時的に滅びることとなる。義久尼子3兄弟は、一部従者と共に円明寺連行され幽閉されることとなった。幸盛は随従願い出た許されず、出雲大社主君別れたその後、幸盛は尼子家再興するため尽力することとなる。

※この「尼子氏の滅亡」の解説は、「山中幸盛」の解説の一部です。
「尼子氏の滅亡」を含む「山中幸盛」の記事については、「山中幸盛」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「尼子氏の滅亡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「尼子氏の滅亡」の関連用語

尼子氏の滅亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



尼子氏の滅亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの布部山の戦い (改訂履歴)、山中幸盛 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS