出雲三沢氏とは? わかりやすく解説

出雲三沢氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 07:41 UTC 版)

三沢氏」の記事における「出雲三沢氏」の解説

承久3年1221年)の承久の乱戦功挙げた飯嶋為光は、新補地頭として出雲国三沢荘(一般的には三沢はみさわと称されるが、三沢氏発祥の地である三沢荘はみざわと発音し三沢氏正式な発音はみざわである)を与えられた。その後1302年三沢為長(為仲)が、因幡国鹿野経て往来し、この地で良質な砂鉄採取して野踏鞴製鉄山野開拓により力をつけ、嘉元3年1305年)、仁多郡内をはじめ島根半島までも一望できる要衝の地・鴨倉山に当城要害山三沢城築城し、同時に信濃から当地移り以後名字三沢改めた。これが出雲三沢氏の始まりである。また、木曾系を出自とすると、三沢為仲が三沢入って三沢氏称したのが始まりとされる室町時代には出雲国支配していた山名氏傘下入り1391年には出雲守護山名満幸に従って明徳の乱出陣当主三沢為忠は討死している。室町時代末期には、新守護の京極氏従い出雲国の有力国人として成長遂げている。 戦国時代になると守護京極氏所領奪った尼子氏とは対立関係となり、尼子経久追放中心として活躍した。しかし1488年三沢為国尼子経久戦って敗れ、その傘下入った。しかし、経久三男の興久の率いる反尼子同盟加わり、興久の反乱加担したため、1531年尼子経久ヶ瀬城が再度攻撃を受け、三沢為国らは捕虜となる事態起きた。これは当主三沢為幸の手引きによる行動で、独立した動きを取る兄と弟を封じ込めるであった三沢為幸はその後尼子氏従い1540年吉田郡山城の戦い出陣し青山土取場の戦い討死遂げている。 跡を継いだ三沢為清大内氏従属したが、月山富田城の戦い吉川氏と共に尼子氏寝返り大内敗退一因作った。しかし三沢氏独立性高く尼子氏軍役拒否して尼子氏との戦い及んだ場合もあった。こういった反抗的な態度取ってきた三沢氏に対して尼子晴久横田荘三沢氏領地砂鉄産地たたら製鉄場を取り上げ直轄化するなど、経久に比べて強硬的な姿勢三沢氏統治している。 しかし、晴久の急死後から既に三沢氏不穏な動き見せていたこともあり、義久は父が取り上げた横田荘返還した上で自らの妹を輿入れする等し懐柔ようとした1561年大内であった周防国長門国を完全に制圧した毛利元就出雲への本格的な侵攻開始すると、赤穴氏三刀屋氏とともに三沢氏毛利氏降伏したその後出雲侵攻には毛利軍主力として活動した尼子氏の滅亡後に、山中幸盛尼子勝久尼子再興軍として出雲への侵攻図り、旧尼子家臣団にも動揺走り再興軍に加わる国人豪族続出したその中で三沢為清一貫して毛利氏従い尼子再興軍の撃退活躍した。 為清死後の1589年息子三沢為虎毛利輝元に謀られ、幽閉の身となったその後解放され長門国厚狭郡古帳10000石を領するとなった。この幽閉劇は、毛利氏による旧・尼子家臣団への締め付け出雲国支配強化狙いであり、三沢氏同様、旧・尼子家臣団でもあった三刀屋久扶追放憂き目にあっている。三沢為虎はその能力買われており、追放されなかっただけ三刀屋氏よりはましであったかもしれない。 為虎は翌年豊臣秀吉小田原征伐にも参加し文禄・慶長の役でも毛利軍一員として活躍した1600年関ヶ原の戦いでは赤間関守備敗戦の後、三沢為虎長府藩家老職となり、三沢氏江戸時代長府藩士として続いた

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