青山土取場の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:27 UTC 版)
「吉田郡山城の戦い」の記事における「青山土取場の戦い」の解説
10月11日、尼子誠久らは新宮党など1万を動員し、城下に火を放ちながら徐々に吉田郡山城に迫ろうとした。これを察知した毛利元就は積極的な攻勢を加える指示を下す。家臣は兵数の不利を訴えたが、元就は不意討ちなら必ず勝てると唱えて軍勢を三手に分けた。第一軍は渡辺通・国司元相・児玉就光に兵500を預けて、城の西方である大通院谷から出た先で伏兵とした。第二軍は桂元澄・粟屋元真などが率いる200人で、こちらも伏兵として青山に近い場所まで密かに南進させた。そして第三軍1,000余は、元就自身が率いて正面から尼子軍を引きつける役割であった。 元就率いる本隊は、赤川元保の手勢400余を先鋒に、尼子軍の三沢為幸・亀井秀綱・米原綱寛らと激戦を展開した。そして、数刻に及ぶ戦いで両軍の疲労が色濃くなった頃を見て、伏兵の渡辺・国司・児玉勢が左翼から、桂・粟屋勢が右翼から突撃したため、尼子軍は大混乱となって壊走。毛利軍の追撃は、青山の麓にある尼子本陣の外柵を破壊して内部に侵入するまでに至った。青山土取場の戦いと呼ばれるこの戦いにより、尼子軍は三沢為幸ら500人が討死する大きな被害を受けた。
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