平佐就之とは? わかりやすく解説

平佐就之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 04:44 UTC 版)

 
平佐 就之
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 享禄4年(1531年
死没 慶長17年5月29日1612年6月28日
改名 平佐小法師(幼名)→平佐就之
別名 通称:源七郎→藤右衛門尉
略称:平藤
官位 従六位[要出典]伊豆守
主君 毛利元就輝元
萩藩(長州藩)
氏族 大江姓毛利氏庶流平佐氏
父母 父:平佐元賢
兄弟 就之、就言[1]
粟屋就俊元室
養子:元貞(粟屋就貞の子)
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平佐 就之(ひらさ なりゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で、毛利元就の側近として活躍した。父は平佐元賢

出自

平佐氏は毛利氏の庶流で、毛利元春の四男・中馬忠広の次男である中馬広貞が安芸国高田郡平佐郷[注釈 1]を領して、地名から「平佐」の名字を名乗った[2]。広貞以降は平佐元淵、元賢、就之と続いた[3]

生涯

享禄4年(1531年)、毛利氏家臣・平佐元賢の子として生まれる[4]毛利元就に御手廻役として仕え、毛利氏家臣から元就への申し出の取次や使者を務める[3]等、元就の側近として活躍し、年寄衆の一人となる[2]

天文9年(1540年10月11日吉田郡山城の戦いの局地戦である青山土取場の戦い赤川元助(後の赤川元保)、長屋元忠、児玉元良児玉就方、岡元良、井上元在(後の井上元光)、井上就綱らと共に尼子方の三沢為幸を打ち破った[5]

天文21年(1552年7月23日、備後国の高杉城(祝城)における合戦において粟屋元国の四男である粟屋就俊が24歳で戦死したため、粟屋就俊の妻は元就の意向によって就之に再嫁した[6]。粟屋就俊の妻はこの時男子を懐妊しており、程なくして男子が誕生したため、元就はこの男子に粟屋就俊の後を継がせて粟屋就貞と名乗らせた[6]

天文24年(1555年)の厳島の戦いでは元就の側近として従軍した[7]

弘治3年(1557年11月25日に毛利元就が子の毛利隆元吉川元春小早川隆景に宛てて送った「三子教訓状[8]に対する返書を毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の連名で翌11月26日に送っているが、その返書の宛先は元就の側近であった就之となっている[9][10]

永禄4年(1561年3月27日から閏3月6日まで、毛利元就・隆元父子らが小早川隆景の居城である新高山城を訪問した際に就之もその供をしている[11]

永禄6年(1563年)の出雲国白鹿城攻めに従軍し、10月13日に白鹿城の支城である小高丸を桜井就綱らと共に奪取する戦功を挙げ[12]、同年10月18日に元就から感状を与えられている[2][13]。また、同年に父・元賢が死去している[3]

永禄11年(1568年)5月、毛利元就の命を受けて伊予出兵を終えた吉川元春と小早川隆景のもとに長井元為と共に使者として赴き、和智誠春・柚谷元家兄弟の誅殺命令を伝えたが、吉川元春と小早川隆景は凱旋の途中で従軍中の和智誠春と柚谷元家を誅殺すれば他の諸将の動揺を招き、直後に行われる北九州攻め(立花城の戦い)に悪影響が及ぶことを憂慮して元就に猶予を求めたため、和智誠春と柚谷元家は厳島の摂受坊へ監禁されることとなる[14]

天正元年(1573年8月6日、就之の妻と前夫との間の子である粟屋就貞が紀伊国熊野山の音無川で溺死したため、就之は就貞の嫡男である幼い元貞を引き取って養子とした[6]

天正4年(1576年2月9日、毛利輝元から安芸国の高田郡多治比山県郡壬生沼田郡佐東郡上安周防国都濃郡小畑の各所領[注釈 2]を安堵されている[2][15]が、天正末年の惣国検地において給地替えが行われ、天正19年(1591年11月15日穂井田元清福原広俊渡辺長林就長佐世元嘉二宮就辰内藤元栄安国寺恵瓊の連署打渡状で、備後国芦品郡府中の木梨領内で200を与えられた[2][16]

慶長17年(1612年5月29日に死去[3][6]。享年82[3][6]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の広島県安芸高田市吉田町多治比
  2. ^ 安芸国高田郡多治比で河田名の田14と山一ひら、かけ名の田1町7段と山と草山、安芸国山県郡壬生の内濱こなし名の田1町5段、沼田郡の内の西垣の内の小野原の田2町、佐東郡上安の内三名30貫目周防国都濃郡小畑の20[15]

出典

  1. ^ 『閥閲録』巻56「櫻井半左衛門」
  2. ^ a b c d e 舘鼻誠 1986, p. 277.
  3. ^ a b c d e 『閥閲録』巻59「平佐權右衛門」家譜。
  4. ^ 高田郡史 上巻 1972, p. 171.
  5. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 103.
  6. ^ a b c d e 舘鼻誠 1986, p. 278.
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 213.
  8. ^ 『毛利家文書』第405号、弘治3年(1557年)比定11月25日付け、(毛利)隆元・(小早川)隆景・(吉川)元春宛て、右馬元就(毛利右馬頭元就)自筆書状。
  9. ^ 『毛利家文書』第407号、弘治3年(1557年)比定11月26日付け、源七郎(平佐就之)殿宛て、(毛利)隆元・(吉川)元春・(小早川)隆景連署請書。
  10. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 291.
  11. ^ 『毛利家文書』第403号、毛利元就父子雄高山行向滞留日記。
  12. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 434–435.
  13. ^ 『閥閲録』巻59「平佐權右衛門」第1号、永禄6年(1563年)10月18日付け、平佐源七郎(就之)殿宛て、(毛利)元就感状写。
  14. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 486.
  15. ^ a b 『閥閲録』巻59「平佐權右衛門」第7号、天正4年(1576年)2月9日付け、平佐藤右衛門尉(就之)殿宛て、(毛利)輝元書状。
  16. ^ 『閥閲録』巻59「平佐權右衛門」第8号、天正19年(1591年)11月15日付け、平佐伊豆守(就之)殿宛て、(毛利)治部大輔元清・(福原)式部少輔廣俊・(渡辺)飛騨守長・(林)肥前守就長・(佐世)與三左衛門元嘉・(二宮)太郎右衛門就辰・(内藤)與三右衛門元榮・安國寺惠慶連署打渡状。

参考文献





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