平佐元賢とは? わかりやすく解説

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平佐元賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/15 04:18 UTC 版)

 
平佐 元賢
時代 戦国時代
生誕 延徳3年(1491年
死没 永禄6年(1563年
改名 平佐千代法師(幼名)→平佐元賢→入道時貞(入道号
別名 通称左衛門佐
官位 美作守
主君 毛利興元幸松丸元就
氏族 大江姓毛利氏庶流平佐氏
父母 父:平佐元淵
就之、就言[1]
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平佐 元賢(ひらさ もとかた)は、戦国時代武将毛利氏家臣。毛利興元幸松丸元就に仕え、日取役[注釈 1]を任された[2]。子は毛利元就の側近として活躍した平佐就之[3]

出自

平佐氏は毛利氏の庶流で、毛利元春の四男・中馬忠広の次男である中馬広貞が安芸国高田郡平佐郷[注釈 2]を領して、地名から「平佐」の名字を名乗った[3][4]。広貞以降は平佐元淵、元賢、就之と続き、江戸時代には長州藩士となっている[2]

生涯

延徳3年(1491年)、毛利氏庶流の家臣である平佐元淵の子として生まれる[3]

年不詳であるが、安芸国山県郡寺原における合戦で父・元淵が戦死したため、家督を相続する[5]

大永3年(1523年7月15日に毛利氏当主の毛利幸松丸が幼くして死去したため、毛利氏の重臣たちが後継者を誰にするか協議し、2、3人の重臣が毛利元就の異母弟である相合元綱を擁立しようとしたが、執政の志道広良を筆頭に福原広俊桂元澄ら多くの重臣は元就を当主に推挙した[6]

毛利元就の家督相続が決まったため、同年7月25日に志道広良や福原広俊ら毛利氏の重臣15名[注釈 3][7]が連署して、元就の家督相続受諾を慶ぶと共に、少しの他意も無く元就を奉じて忠誠を尽くすことを誓約して、元就の吉田郡山城への入城を要請する起請文が作成された[7][8][9]

毛利氏重臣の連署起請文が作成された同日に吉田郡山城と同じ山中にあった満願寺の僧侶である満願寺栄秀が元就の吉田郡山城への入城の吉日良辰を占ったところ、8月10日の申酉の刻という結果になったことを満願寺栄秀と元賢が国司有相井上有景を通じて志道広良に伝えている[注釈 4][11][12]。その後、元就は卜占の結果に従って8月10日に吉田郡山城に入城した[13]

具体的な年は不明だが、毛利元就が「少輔次郎」を名乗っていた時期[注釈 5]6月4日に、毛利氏の本拠地である吉田の事についてあれこれと深く気を揉んでいるので頼みにするという旨の書状を元就から送られている[15]

享禄4年(1531年)、嫡男の平佐就之が生まれる[3]

永禄6年(1563年)に死去[2][3]。享年73[3]

脚注

注釈

  1. ^ 日取とは、事を行うに適した日を選んで決めることを指す。
  2. ^ 現在の広島県安芸高田市吉田町多治比
  3. ^ この時連署状に署名した15名の重臣は、署名順に福原広俊中村元明坂広秀渡辺勝粟屋元秀赤川元助(元保)井上就在井上元盛赤川就秀飯田元親井上元貞井上元吉井上元兼桂元澄志道広良[7]
  4. ^ この時に満願寺栄秀と元賢が吉日を伝えた連署状の写真が『高田郡史 上巻』に掲載されている[10]
  5. ^ 少なくとも大永5年(1525年)頃までの毛利元就は「少輔次郎」を名乗っているが、享禄3年(1530年)までに毛利氏当主が代々名乗ってきた「治部少輔」という官途名に変更している[14]

出典

  1. ^ 『閥閲録』巻56「櫻井半左衛門」
  2. ^ a b c 『閥閲録』巻59「平佐權右衛門」家譜。
  3. ^ a b c d e f 高田郡史 上巻 1972, p. 171.
  4. ^ 舘鼻誠 1986, p. 277.
  5. ^ 高田郡史 上巻 1972, pp. 170–171.
  6. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 71.
  7. ^ a b c 『毛利家文書』第248号、大永3年(1523年)7月25日付け、福原広俊外十四名連署状。
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 71–73.
  9. ^ 岸田裕之 2014, p. 32.
  10. ^ 高田郡史 上巻 1972, p. 212.
  11. ^ 岸田裕之 2014, p. 31.
  12. ^ 『毛利家文書』第247号、大永3年(1523年)比定7月25日付け、國司右京亮(有相)殿・井上與三右衛門尉(有景)殿宛て、満願寺榮秀・(平佐)美作守元賢連署状。
  13. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 73.
  14. ^ 村井良介 2024, p. 10.
  15. ^ 『閥閲録』巻56「櫻井半左衛門」第1号、年不詳6月4日付け、美作守(平佐元賢)殿宛て、次郎元就(毛利少輔次郎元就)書状。

参考文献




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