井上就在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 15:32 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文23年6月13日(1554年7月12日) |
別名 | 通称:五郎三郎 |
官位 | 左馬助(官途名) |
主君 | 毛利興元→幸松丸→元就 |
氏族 | 安芸井上氏 |
父母 | 父:井上光貞 |
子 | 元満 |
井上 就在(いのうえ なりあり)は、戦国時代の武将。安芸国高田郡吉田[注釈 1]を本拠とする国人である毛利氏の家臣。安芸井上氏は、清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の支流である。
生涯
安芸井上氏19代当主である井上勝光の六男・井上光貞の子として生まれる。
大永3年(1523年)に毛利幸松丸が死去した際、毛利元就に家督相続を要請した15名の宿老の1人[注釈 2]。この時、就在は7番目に「井上五郎三郎就在」と署名している[1]。
また、享禄5年(1532年)7月13日の毛利氏家臣団32名が互いの利害調整を元就に要請した連署起請文では11番目に「井上左馬助就在」と署名している[注釈 3][2]。
元就が家督を継ぐ以前から、元就の「就」の字を名前に用いているため、既に元就と親しい関係にあったと考えられ、天文19年(1550年)に井上元兼をはじめとした安芸井上氏の一族30余名が元就によって粛清された際にも就在は粛清を免れた。その上、同年12月21日には嫡男の元満が毛利隆元から安芸国安芸郡坂のうちの国末名を給地として与えられている[3]。
天文23年(1554年)6月13日に死去。子の元満が跡を継いだ。子孫には明治の元勲である井上馨がいる。
脚注
注釈
- ^ 現在の広島県安芸高田市吉田町。
- ^ この時連署状に署名した15名の宿老は、署名順に福原広俊、中村元明、坂広秀、渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、井上就在、井上元盛、赤川就秀、飯田元親、井上元貞、井上元吉、井上元兼、桂元澄、志道広良[1]。
- ^ この時連署状に署名した32名は、署名順に福原広俊、志道広良、桂元澄、福原元勝、坂広昌(元貞)、山中元孝、光永元隆、北就勝、井上元吉、粟屋元秀、井上就在、長屋吉親、井上元盛、井上元貞、国司有相、井上有景、井上元続、井上俊秀、井上良在、井上俊久、国司就連、粟屋元親、粟屋元国、赤川就秀、飯田広親、赤川元助(元保)、佐々部祐賢、南方親州、内藤元康、秋山親吉、三田元実、井原元師[2]。
出典
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-1 毛利家文書之一』東京帝国大学、1920年11月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-2 毛利家文書之二』東京帝国大学、1922年2月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 『萩藩閥閲録』巻95「井上彦右衛門」
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