白鹿城の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 白鹿城の戦いの意味・解説 

白鹿城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/08 01:30 UTC 版)

白鹿城の戦い(しらがじょうのたたかい)とは、永禄6年8月(1563年8月)から永禄6年10月(1563年11月)にかけて毛利軍尼子軍との間で起こった攻城戦である。戦いの場所が白鹿城(現在の島根県松江市法吉町)で行われたことから、白鹿城の戦いと呼ばれる。


注釈

  1. ^ 『新裁軍記』巻七「天文二十年」。天文20年8月28日(1551年9月28日)、陶隆房が大内義隆を討つため山口へ進軍。義隆は同年9月1日(1551年9月30日)に大寧寺で自害[1]
  2. ^ 『新裁軍記』巻十三(弘治三年)。弘治3年4月3日(1557年5月1日)に大内義長が自害し、これにより大内氏は滅亡した[3]
  3. ^ 忍原崩れがあったのは弘治2年7月下旬。『大日本古文書-毛利家古文書-』の編纂者は、この書状を永禄元年と推定しているが、最近の研究では弘治2年の書状であることが指摘されている[11]
  4. ^ 石見銀山を掌握するための重要拠点・山吹城を、尼子氏が攻略したのは弘治2年9月3日をそれほど遡らない時期[13]
  5. ^ 白鹿城攻略の後、元就は隆元と同じように果てることを本望とし、自暴自棄になり、出雲の陣を終結して帰陣できたならば、出家法師となり遁世したいと周りに漏らしていた[20]
  6. ^ 『陰徳太平記』15,000[21]。『雲陽軍実記』22,000~23,000[22]
  7. ^ 出羽民部少輔元祐[26]
  8. ^ 『陰徳太平記』では、尼子軍の松田大炊助が200騎で最初に応戦した[21]
  9. ^ 熊谷兵庫頭高直[27]
  10. ^ 『陰徳太平記』は2,000[21]、『雲陽軍実記』は3,000[22]
  11. ^ 『陰徳太平記』は1,500[21]、『雲陽軍実記』は1,000[22]
  12. ^ 元就はこのとき、一両日中には白鹿城を攻略できるだろうと予想していた[25]
  13. ^ 『陰徳太平記』13,000 [36]。『雲陽軍実記』12,000[23]
  14. ^ 尼子軍が降伏したのは、小高丸の攻防のあった10月13日から10月17日までの間と考えられる。
  15. ^ 後に若林の姓を野村と改める。諸正・諸行の叔父は毛利方の武将・野村士悦。若林兄弟が戦死したことにより若林氏(野村氏)の本流となる[44]
  16. ^ 『雲陽軍実記』では18歳[22]
  17. ^ 『雲陽軍実記』では敵の首3、4個を取る[22]
  18. ^ 福間元明覚書写より[33]。『後太平記』では身日大蔵助久盛[34]。『陰徳太平記』では不明[21]
  19. ^ 『後太平記』では粟屋彦右衛門元忠[34]
  20. ^ 『後太平記』では引き分け[34]
  21. ^ 『後太平記』では助盛が傷を負って引く[34]
  22. ^ 『後太平記』では平次が新三郎を討ち取る[34]

出典

  1. ^ (天正3年)1月吉日 多々良氏譜牒並龍福寺来由『閥閲録・龍福寺』。
  2. ^ 天文24年10月20日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状『閥閲録11ノ2』ほか。
  3. ^ (弘治3年5月9日 刑部大輔・兒玉若狭守 宛て 毛利元就書状『閥閲録84』
  4. ^ 永禄2年(4年ヵ)4月20日 井上又右衛門尉 宛て 小早川隆景感状『閥閲録11ノ2』。『桂桂岌円覚書』。備中松山城が落城したのは4月6日(5月12日)。
  5. ^ (年月日未詳)毛利隆元 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書429』。
  6. ^ 御湯殿上日記 永禄2年5月13日の条。毛利隆元が備中平定の注進書と頸注文とを朝廷に献上。
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 340.
  8. ^ (永禄5年)6月8日 出羽民部大輔 宛て 毛利元就・同隆元連署起請文写『閥閲録43』。山吹城の城番・本城常光が毛利氏に降伏した時期は永禄5年6月上旬ごろ。
  9. ^ (永禄5年)6月23日 毛利元就・同隆元連署書状写『閥閲録遺漏4-1』。
  10. ^ (弘治2年)7月晦日 能登守(桂元澄) 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書636』。
  11. ^ 尼子氏の石見進出をめぐって 2000, p. 27.
  12. ^ (弘治2年)9月3日 益田伊豆守・益田刑部少輔 尼子晴久書状写『閥閲録168』。
  13. ^ 戦国大名尼子氏の研究 2000, pp. 98–99.
  14. ^ 尼子義久家臣人数帳『佐々木文書237』。
  15. ^ (永禄5年)7月29日 心東堂 宛て 三吉隆亮書状写『閲覧録遺漏4-1』『浄泉寺文書』。
  16. ^ (永禄5年12月) 兼重五郎兵衛 宛て 毛利元就書状写『閥閲録52』ほか。
  17. ^ 山中鹿介紀行 1980, p. 80.
  18. ^ a b c 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。
  19. ^ a b 『桂岌圓覚書』。
  20. ^ (永禄6年)潤12月24日 策雲 宛て 小早川隆景書状『長府毛利家文書』。
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 陰徳太平記』巻第三十六「雲州白鹿の城攻の事」。
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n 雲陽軍実記』第三巻「白鹿城ニノ城戸大合戦 並びに矢文返歌の事」。
  23. ^ a b c d e 『雲陽軍実記』第三巻「富田勢出張先鋒争ひ 並びに白鹿の麓合戦、尼子方敗北の事」
  24. ^ 尼子氏と戦国時代の鳥取 2010, p. 65.
  25. ^ a b c (永禄6年)8月20日 棚守左近衛将監 宛て毛利元就書状『厳島野坂文書』。
  26. ^ 『閥閲録43』「出羽源八」。
  27. ^ 『閥閲録27』「熊谷帯刀」。
  28. ^ a b 『陰徳太平記』巻第三十七「雲州熊野の城鉄砲揃え付り合戦之事」。
  29. ^ a b 『雲陽軍実記』第三巻「熊野合戦、並びに熊野和泉守討死の事」。
  30. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 431.
  31. ^ a b c d e f g 永禄6年11月13日 吉川元春軍忠状『吉川家文書』。
  32. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 433.
  33. ^ a b c 天正14年 福間元明覚書写『閥閲録83』。
  34. ^ a b c d e f g h i 『後太平記』巻第三十六「雲州白鹿城没落之事 付 穴仕寄り十番槍之事」。
  35. ^ (慶長17年)正月9日 洞春寺 宛て 小川信秀軍忠付立『閥閲録110』。
  36. ^ a b c d e f g 『陰徳太平記』巻第三十七「白鹿の城後詰 付 同城明け渡す事」。
  37. ^ 『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」。
  38. ^ 『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」。
  39. ^ (永禄6年)10月18日 村上余次郎 宛て 毛利元就感状写『閥閲録44』ほか。
  40. ^ (永禄6年)10月17日  棚守左近衛将監 御返報  吉川元春巻数并供米返事『切紙、厳島野坂文書』。
  41. ^ (永禄8年ヵ)正月28日 棚守左近衛将監 宛て 毛利元就書状『厳島野坂文書』。
  42. ^ 尼子氏と戦国時代の鳥取 2010, p. 73.
  43. ^ (永禄8年)6月14日 村山四郎大夫 宛て 乃美隆興書状写『毛利氏四代実録考証論断』ほか。
  44. ^ 「戦国に於ける野村士悦の活動」1958.5 野村 晋域 著 『日本歴史(119)』吉川弘文館
  45. ^ 出雲の山城 2013, pp. 59–60.
  46. ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 432–433.


「白鹿城の戦い」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「白鹿城の戦い」の関連用語

白鹿城の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



白鹿城の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの白鹿城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS