牛尾久信とは? わかりやすく解説

牛尾久信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 23:28 UTC 版)

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牛尾久信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正14年(1586年
別名 太郎
官位 左衛門尉
主君 尼子晴久義久毛利氏
氏族 牛尾氏
父母 父:牛尾幸清
兄弟 久信、幸晴、幸信(弾正忠)、隣西堂、甚次郎
久明
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牛尾 久信(うしお ひさのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将尼子氏毛利氏の家臣。出雲国牛尾城主。

生涯

出雲の戦国大名・尼子氏の家臣・牛尾幸清の子として誕生。尼子家臣団において牛尾氏の次席は第3位で、牛尾氏宗家の嫡子である久信は伯耆国にて禄11,700石を与えられており、御手廻り衆の立場であった。

永禄3年(1560年)、主君・尼子晴久から本城常光への支援を命じられ、父と共に出陣。同年、石見国福屋隆兼毛利氏に叛旗を翻した際もその支援にあたり、吉川経安が守る福光城を攻撃するが撃退された。

翌永禄4年(1561年)、毛利元就の出雲侵攻により、居城・牛尾城にて毛利軍と一戦を交え、その後主君・尼子義久と共に月山富田城にて籠城する。尼子倫久を総大将とする出雲白鹿城への救援軍として出陣し、それを迎え撃つ毛利軍と激戦を展開するも重傷を負い、自害しようとしたが説得され、毛利軍によって月山富田城へと移送された。永禄8年(1565年)、毛利軍によって月山富田城は完全に包囲され、兵糧攻めが開始された。士気も衰え、兵糧不足に耐えきれなくなった牛尾親子は城内から逃亡、毛利氏に降伏した(第二次月山富田城の戦い)。

その後は毛利氏に仕え、天正14年(1586年)に豊臣秀吉九州平定の先陣となるが、その戦いの最中、豊前にて討死したとされる。





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