補説・逸話とは? わかりやすく解説

補説・逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:43 UTC 版)

月山富田城の戦い」の記事における「補説・逸話」の解説

秋上宗信天野隆重から「降伏する」との偽の書状受け取った際の対応について史料により異同がある。『雲陽軍実記』では、山中鹿之助山中幸盛)が宗信に「隆重は毛利無二の忠臣であるため月山富田城任せられている。その隆重が一戦もせずに降参するとは理解しがたい。よって、無勢籠城するのは難しいと考えての嘘の降参であり、真の目的合戦を長引かせ、その隙に残った毛利方の諸勢力糾合しつつ本国からの加勢を待つ作戦である」と油断しないよう忠告したが、宗信は「隆重ほどの義士偽りの降参はない」と言って信じなかったため敗れたとする。一方『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、幸盛をはじめ尼子再興軍の将は、隆重が出した嘘の書状を見破ることができず大い喜び勇んだが、宗信敗北したことで初め偽りの降伏であったことを知り悔しがったとする『雲陽軍実記』によれば秋上宗信率い尼子再興軍が天野隆重毛利軍の攻撃受けて退却する際、200の裏切り者出て軍の被害増大したとする。 尼子再興軍の山中幸盛立原久綱らが再度月山富田城攻撃した際の戦いについて史料により異同がある。『雲陽軍実記』では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き伏兵をもって月山富田城に籠もる毛利軍おびき寄せる作戦取ったため、その策を見破る事ができなかった隆重は城下まで誘い出され合戦となる。戦い尼子再興軍が圧倒し、隆重ら毛利軍多数死傷者出して城内退却するのにあわせ、尼子再興軍が城内攻め込もうとしたところ、石見毛利軍来襲急報を受け退却したとする。一方『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き伏兵をもって城兵おびき寄せる作戦を隆重は看破しており、弓矢鉄砲を射かけ尼子再興軍に勝利したとする。

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補説・逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)

布部山の戦い」の記事における「補説・逸話」の解説

尼子再興軍は多久和(島根県雲南市三刀屋町多久和)へ小屋城を築くと、秋上伊織助(秋上宗信)、福山次郎左衛門遠藤甚九郎、川副右馬介大将として500騎ばかりでその城を守らせていた。そこへ毛利軍20,000騎ばかりで攻めてきたため、宗信らは戦わずして築いていた砦の小屋々々を焼いて逃亡した逃亡する際、毛利軍追撃を受け177人が討ち死にした毛利軍村上左衛門をはじめ23人が討ち死にした。この戦の後、街道には次の狂歌書かれ高札立った。 城を明け 落葉の頃は 道理なり いかに伊織を 春焼きにする また別の説として、多久和城守っていた尼子再興軍の将は秋宅庵助(あきやけいおりのすけ)と尤道理助(もっともどうりのすけ)であったが、同じく毛利軍大軍驚き一戦もせずに城に火をかけて落ち延びたため、次の狂歌書かれ高札立った。 秋やけて 落(おつる)は 尤道理如何に庵を 春やけにする 山中鹿助(山中幸盛)は布部の峰々や谷々に空陣屋多く作り余所目には10,000騎の軍が陣取るように見せた。この策が敵に知られないよう内通者を見つけ出し3人の首を刎ねたが、吉川元春先年より富田近辺在々処々一揆の者に賄賂送って味方につけていたので内通者多く、この策は見破られてしまった。 戦い始まった際、床几しょうぎ)に腰かけていた毛利輝元後ろの山より、30人力でも動かせないよう大岩大きな音を立てて転がり落ちてきた。このような事態に輝元は少しも慌てず「今、大岩我が後ろより放られたということは、天が我に力を合わせて敵陣打ち破れということ示したものだ。さもなくば、天が合戦早めよ告げたもの。進め皆の者と言って将兵勇気づけた。 毛利軍吉川元春小早川隆景は、尼子再興軍の陣立て調べるため80騎あまりの斥候出したが、それを阻止しよう山中鹿之助山中幸盛)が100騎あまりを率いて出陣してくると戦わずして退却した退却する際、毛利軍遠藤五郎三郎元貞はただ一騎駆け戻り幸盛に突き挑んだが、幸盛がその受け流して元貞乗る馬の目に突き入れたため、馬は暴れて谷底落ち乗馬していた元貞落ちて運よく助かった命拾いした元貞に対して幸盛は「我に合わせんとする志は、武であり勇である。そのため今回天運助けられた。これから武運全うし早く起き上がって味方の陣へ帰られよ」と言って去っていった。 山中鹿之助山中幸盛)が自ら敵軍攻め込もうとした際、寺本生死助は幸盛の傍に寄り「軍の大将軽々しい行動をすべきではありません。私が討って出たい思いますので、願わくば、その鹿角前立ての兜をお借りしたい」と進言した。それを聞いて怒った幸盛であったが、近くにいた尤道理助、藪中助、植田稲葉助、今川助、五月早苗助が取り成したため、怒り抑え生死助に兜を貸すことを許した生死助は喜び30騎あまりを率いて敵軍攻め込むと、兒玉弥七郎就重、田門右衛門尉就正を討ち取って戦功挙げた尼子再興軍の横道兵庫介(横道秀綱)が深手負って道の傍ら休んでいると、向うから姪の聟である中井善左衛門近寄ってきた。秀綱は姪聟であったので油断して「やあ中井殿、深手負ったぞ」と話かけたところ、善左衛門返答もせず突き伏せて秀綱の首を取ってしまった。この善左衛門10日ほど前に毛利軍降り尼子再興軍の敵となっていたが、親しさ油断した秀綱を不意に討ち取った行為に、敵も味方も「善左衛門行い人面獣心のものであると言って憎まない者はいなかった。 尼子再興軍の目黒左近右衛門は、傷を負い退却することが難しかったため、日ごろより親しくしていた民家入り匿って欲しいとその主人頼んだ。その主人了解しの中へ左近右衛門入れて匿っていが、左近右衛門は後をつけられていたため、追っ手毛利軍がその民家入ってきた。これによりもう逃げられない悟った左近右衛門は「敵に止め刺されるのは口惜しい」と思いから這い出て自ら腹を切って自害してしまった。 尼子再興軍の山中鹿助(山中幸盛)は退却する際、銀の草摺くさずり)を装備した目立つ存在であったため、毛利軍小坂越中守に1里ばかり追いかけられたが、足が達者であったため逃亡することに成功した

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補説・逸話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 19:07 UTC 版)

白鹿城の戦い」の記事における「補説・逸話」の解説

白鹿城の二の城戸守っていたのは、常福寺普門西堂という僧兵であった普門西堂城主松田誠保末弟であり、その城戸守護する近辺住民ともども血気剛勇の士と知られていた。特に近辺住民は、大内義興命中時代藤沢清浄光寺一遍他阿上人大社参拝のためこの近辺通りかかったとき、4~5百人寄り集まって大内尼子長年敵対関係にある間柄だ。どうして義興の御教書で功を立て遊行坊主を通す必要があろうか」と、他阿上人一行さんざんに矢を射掛けたことがあった。これにまいった他阿上人は「今後、この近辺には決し立ち入らない」としきりに謝罪し以後島根半島島根秋鹿縫、出雲神門には立ち入らず、白潟(現在の松江市白潟本町付近)から南下して宍道、三刀屋、掛合、由来現在の飯南町頓原付近)、赤穴に抜ける道を通った白鹿城毛利軍によって糧道断たれ、また毛利軍銀掘衆が山(城)を掘り進めて井戸水脈絶ったため城内枯渇していた。しかしながら尼子軍毛利軍そのこと察知されないよう毎朝小高い場所に馬を引き出し白米に灰を混ぜて柄杓で馬に振りかけた。そのため毛利軍は「このように馬の湯洗いをするのなら城内枯れていないだろう」と思いだまされてしまった。 開戦に当たり、毛利軍出羽中務少輔300騎あまりを率いて白鹿城切岸まで進むと、次の短歌したため、城の二の廓へ向かって矢文放った。 とし経れば 白鹿の糸も 破れ果て 毛利木蔭の 露と朽ちなん これを受けた城主松田誠保は、神田弥左衛門返歌したためさせると、十三三伏大矢に結びつけ、佐貫大炊介に三人張りの弓を使わせ射返した射返した矢文は、勢い余って中務少輔の陣を超えて熊谷兵庫介の陣まで届き兵庫介の若党鎧の袖刺さったため、兵庫介がその矢文受け取って内容確認した安芸毛利 枝葉落ちて 木枯中に松田ぞ 色を増しけり 読んだ兵庫介は「毛利隆元公の急死知って枝葉落ちて』と読める毛利木枯らしとなる中に松田雪後に色を増すという憎き返歌だと」と怒り城攻め開始した尼子軍若林伯耆守の孫で若林宗八郎諸正、若林宗五郎諸行という兄弟がいた。兄は17歳、弟は15歳どちらも顔立ち美しく武勇にも優れていた。毛利軍白鹿城攻撃開始したとき、2人最前線で戦うも戦功挙げることができずにいた。戦況が不利となり帰城ようとしたところ、城のの上にはその兄弟母親立っていた。「なぜ武功1つ挙げずに帰ろうとするのか。その方らの祖父伯耆守鬼神のように恐れられ武人であったのに、その孫が敵の首1つ取らずに、また鎧武器に血も付けず帰るとは勇も孝もあったものではない。その行いは父や祖父はるかに劣るものである。もし不孝改めたいと思うなら、今一度敵と当たって高名挙げてきなさい」。母親叱責恥じた兄弟は、2・3百人ばかりの毛利軍2人突撃し奮戦するも共に討死した。この話を聞いた人や見た人は「武士の家に生まれた母子勇士はこう然るべしと言って涙を流さない者はいなかった。また祖父伯耆守が「鬼若」と呼ばれていたので、比類なき武勇としてその2人を「孫鬼」と呼び称えた永禄6年8月19日1563年9月6日)、白鹿城に籠もる尼子軍日野太夫孝貞は、城内から1人進み出ると「敵方誰か鉄砲名人はいないか。試しに自ら具足こしらえてみた。誰かこの鎧に鉄砲の弾を当てることができる者はいないか」と言って毛利軍挑発した。毛利軍将兵は「数万寄手中でも外したら恥だ」と思い誰も名乗り出なかったが、少しして備後勢の中かから誰とは言わない1人進み出ると、3尺7・8寸(114cm~117cm)ばかりの鉄砲孝貞に向け、つっと立った。これを見て孝貞カラカラ笑い宛先ど真ん中ぞ」と言って胸板ほとほと叩き撃たれるのを待った。距離は1町(約100m)ばかりあったため、玉は孝貞の上通り後ろの防牌(矢盾)の板に当たった孝貞カラカラ笑い引き金を引くときに強く手を押さえて引いたため銃口上向いた。今少し下げて放てと言ったが、撃った男はそれを本当とは思わず、さらに少し上げて再び撃った。そのため、玉は先ほどより更に一尺(約30cm)ばかり孝貞の上越えていった。これに怒った孝貞は「人の志を虚しくする人物である。某の胸板射るのでなくこれを射てみよ」と言って草摺持上げて尻を出すと、尻を叩いて城内帰っていった。これには敵も味方大い嘲り備後勢も「那須与一が扇を射た時とはかくも違うものよ」と言って声を上げて笑った。 この白鹿城の戦い軍忠状現代まで残っており、これによると戦い主体銃撃戦になっていることが分かる。特に10月10日11日戦闘では、吉川軍の戦死者5名を除く戦傷原因は、鉄砲傷73%を占め矢傷13%、礫傷11%、切り傷2%大きく上回っている。 毛利軍白鹿城攻める際、石州銀山の塩屋豊前守命じて数百人の銀堀衆をそろえさせ、城内向かって坑道掘り進めていた。対して城内尼子軍もそれを察知し対抗して城中から坑道掘り進め毛利軍侵入阻止しようとした。永禄6年9月11日1563年9月28日)、毛利軍穴掘衆、山県四郎右衛門、朝市允、佐伯太郎右衛門小谷新允らが穴を掘り進めるなか、なにやら物音聞こえるかと思うや否や、土がドカッと崩れ同じく穴を掘っていた尼子軍鉢合わせとなった尼子軍より久村左衛門大道作介、乃木五郎兵衛らがをもって突きかかると、対す毛利軍吉川彦次郎小谷源五郎三須孫兵衛山県右衛門らが進み出て戦ったしかしながら穴の中は狭く戦いにくかったため、やがて両軍撤退しそのうち尼子軍掘った穴に大石小石投げ入れて塞いでしまった。 また、尼子軍毛利軍坑道内の戦い別の場所でも行われていた。そこでは両軍10名による一騎討ち戦いが行われた。しかしながら結局この戦い決着には至らず両軍撤退する。そしてこれも尼子軍大石小石投げ入れて穴を塞いでしまい、それ以降毛利軍尼子軍坑道内で戦うことはなかった。 坑道内の一騎討ち十番勝負番号毛利軍尼子軍勝負結果1番安芸福間右衛門元明 身白大蔵 元明大蔵討ち取る 2番備後粟屋右衛門就光 松田大炊決着つかず 3番備後粟屋弥四元綱 伯州山尾刑部丞 決着つかず 4番安芸児玉四郎右衛門就政 隠岐森川決着つかず 5番安芸井上雅楽出雲湯原小次郎 決着つかず 6番安芸波多野源兵衛 不明 源兵衛討ち取る 7番安芸三戸小三雲州村井兵庫介助小三郎が傷を負って引く 8番安芸井上豊後守 石州の原佐助信綱 両者手負いとなり引く 9番安芸赤川木工雲州小野三郎 三郎が膝を突かれて引く 10番備後粟屋新三郎 雲州山口平次 新三郎平次討ち取る

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