補説・逸話
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秋上宗信が天野隆重から「降伏する」との偽の書状を受け取った際の対応について史料により異同がある。『雲陽軍実記』では、山中鹿之助(山中幸盛)が宗信に「隆重は毛利無二の忠臣であるため月山富田城を任せられている。その隆重が一戦もせずに降参するとは理解しがたい。よって、無勢で籠城するのは難しいと考えての嘘の降参であり、真の目的は合戦を長引かせ、その隙に残った毛利方の諸勢力を糾合しつつ本国からの加勢を待つ作戦である」と油断しないよう忠告したが、宗信は「隆重ほどの義士に偽りの降参はない」と言って信じなかったため敗れたとする。一方、『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、幸盛をはじめ尼子再興軍の将は、隆重が出した嘘の書状を見破ることができず大いに喜び勇んだが、宗信が敗北したことで初めて偽りの降伏であったことを知り悔しがったとする。 『雲陽軍実記』によれば、秋上宗信率いる尼子再興軍が天野隆重ら毛利軍の攻撃を受けて退却する際、200名の裏切り者が出て軍の被害が増大したとする。 尼子再興軍の山中幸盛・立原久綱らが再度、月山富田城を攻撃した際の戦いについても史料により異同がある。『雲陽軍実記』では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き、伏兵をもって月山富田城に籠もる毛利軍をおびき寄せる作戦を取ったため、その策を見破る事ができなかった隆重は城下まで誘い出されて合戦となる。戦いは尼子再興軍が圧倒し、隆重ら毛利軍が多数の死傷者を出して城内へ退却するのにあわせ、尼子再興軍が城内へ攻め込もうとしたところ、石見の毛利軍来襲の急報を受け退却したとする。一方の『陰徳太平記』などの毛利方の史料では、尼子再興軍が浄安寺に陣を敷き伏兵をもって城兵をおびき寄せる作戦を隆重は看破しており、弓矢・鉄砲を射かけ尼子再興軍に勝利したとする。
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補説・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)
尼子再興軍は多久和(島根県雲南市三刀屋町多久和)へ小屋城を築くと、秋上伊織助(秋上宗信)、福山次郎左衛門、遠藤甚九郎、川副右馬介を大将として500騎ばかりでその城を守らせていた。そこへ毛利軍が20,000騎ばかりで攻めてきたため、宗信らは戦わずして築いていた砦の小屋々々を焼いて逃亡した。逃亡する際、毛利軍の追撃を受け177人が討ち死にした。毛利軍も村上又左衛門をはじめ23人が討ち死にした。この戦の後、街道には次の狂歌が書かれた高札が立った。 城を明け 落葉の頃は 道理なり いかに伊織を 春焼きにする また別の説として、多久和城を守っていた尼子再興軍の将は秋宅庵助(あきやけいおりのすけ)と尤道理助(もっともどうりのすけ)であったが、同じく毛利軍の大軍に驚き一戦もせずに城に火をかけて落ち延びたため、次の狂歌が書かれた高札が立った。 秋やけて 落(おつる)は 尤道理助 如何に庵を 春やけにする 山中鹿助(山中幸盛)は布部の峰々や谷々に空陣屋を多く作り、余所目には10,000騎の軍が陣取るように見せた。この策が敵に知られないよう内通者を見つけ出し3人の首を刎ねたが、吉川元春が先年より富田近辺の在々処々の一揆の者に賄賂を送って味方につけていたので内通者が多く、この策は見破られてしまった。 戦いが始まった際、床几(しょうぎ)に腰かけていた毛利輝元の後ろの山より、30人力でも動かせないような大岩が大きな音を立てて転がり落ちてきた。このような事態に輝元は少しも慌てず「今、大岩が我が後ろより放られたということは、天が我に力を合わせて敵陣を打ち破れということを示したものだ。さもなくば、天が合戦を早めよと告げたもの。進めや皆の者」と言って将兵を勇気づけた。 毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、尼子再興軍の陣立てを調べるため80騎あまりの斥候を出したが、それを阻止しようと山中鹿之助(山中幸盛)が100騎あまりを率いて出陣してくると戦わずして退却した。退却する際、毛利軍の遠藤五郎三郎元貞はただ一騎で駆け戻り幸盛に槍を突き挑んだが、幸盛がその槍を受け流して元貞の乗る馬の目に槍を突き入れたため、馬は暴れて谷底へ落ち、乗馬していた元貞は藪に落ちて運よく助かった。命拾いした元貞に対して幸盛は「我に槍を合わせんとする志は、武であり勇である。そのため今回は天運に助けられた。これからも武運を全うし、早く起き上がって味方の陣へ帰られよ」と言って去っていった。 山中鹿之助(山中幸盛)が自ら敵軍へ攻め込もうとした際、寺本生死助は幸盛の傍に寄り「軍の大将は軽々しい行動をすべきではありません。私が討って出たいと思いますので、願わくば、その鹿角の前立ての兜をお借りしたい」と進言した。それを聞いて怒った幸盛であったが、近くにいた尤道理助、藪中荊助、植田稲葉助、今川鮎助、五月早苗助が取り成したため、怒りを抑え生死助に兜を貸すことを許した。生死助は喜び30騎あまりを率いて敵軍へ攻め込むと、兒玉弥七郎就重、田門右衛門尉就正を討ち取って戦功を挙げた。 尼子再興軍の横道兵庫介(横道秀綱)が深手を負って道の傍らで休んでいると、向うから姪の聟である中井善左衛門が近寄ってきた。秀綱は姪聟であったので油断して「やあ中井殿、深手を負ったぞ」と話かけたところ、善左衛門は返答もせず槍で突き伏せて秀綱の首を取ってしまった。この善左衛門は10日ほど前に毛利軍へ降り尼子再興軍の敵となっていたが、親しさに油断した秀綱を不意に討ち取った行為に、敵も味方も「善左衛門の行いは人面獣心のものである」と言って憎まない者はいなかった。 尼子再興軍の目黒左近右衛門は、傷を負い退却することが難しかったため、日ごろより親しくしていた民家に入り匿って欲しいとその主人に頼んだ。その主人も了解し櫃の中へ左近右衛門を入れて匿っていが、左近右衛門は後をつけられていたため、追っ手の毛利軍がその民家に入ってきた。これによりもう逃げられないと悟った左近右衛門は「敵に止めを刺されるのは口惜しい」と思い、櫃から這い出て自ら腹を切って自害してしまった。 尼子再興軍の山中鹿助(山中幸盛)は退却する際、銀の草摺(くさずり)を装備した目立つ存在であったため、毛利軍の小坂越中守に1里ばかり追いかけられたが、足が達者であったため逃亡することに成功した。
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補説・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 19:07 UTC 版)
白鹿城の二の城戸を守っていたのは、常福寺普門西堂という僧兵であった。普門西堂は城主・松田誠保の末弟であり、その城戸を守護する近辺住民ともども血気剛勇の士と知られていた。特に近辺の住民は、大内義興在命中の時代、藤沢の清浄光寺の一遍他阿上人が大社参拝のためこの近辺を通りかかったとき、4~5百人寄り集まって「大内と尼子は長年敵対関係にある間柄だ。どうして義興の御教書で功を立てる遊行坊主を通す必要があろうか」と、他阿上人一行にさんざんに矢を射掛けたことがあった。これにまいった他阿上人は「今後、この近辺には決して立ち入らない」としきりに謝罪し、以後、島根半島の島根、秋鹿、楯縫、出雲、神門には立ち入らず、白潟(現在の松江市白潟本町付近)から南下して宍道、三刀屋、掛合、由来(現在の飯南町頓原付近)、赤穴に抜ける道を通った。 白鹿城は毛利軍によって糧道を断たれ、また毛利軍の銀掘衆が山(城)を掘り進めて井戸の水脈を絶ったため城内の水は枯渇していた。しかしながら尼子軍は毛利軍にそのことを察知されないよう、毎朝小高い場所に馬を引き出し、白米に灰を混ぜて柄杓で馬に振りかけた。そのため毛利軍は「このように馬の湯洗いをするのなら城内の水も枯れていないだろう」と思いだまされてしまった。 開戦に当たり、毛利軍の出羽中務少輔は300騎あまりを率いて白鹿城の切岸まで進むと、次の短歌をしたため、城の二の廓へ向かって矢文を放った。 とし経れば 白鹿の糸も 破れ果て 毛利の木蔭の 露と朽ちなん これを受けた城主の松田誠保は、神田弥左衛門に返歌をしたためさせると、十三束三伏の大矢に結びつけ、佐貫大炊介に三人張りの弓を使わせて射返した。射返した矢文は、勢い余って中務少輔の陣を超えて熊谷兵庫介の陣まで届き、兵庫介の若党の鎧の袖に刺さったため、兵庫介がその矢文を受け取って内容を確認した。 安芸の毛利 枝葉も落ちて 木枯の 中に松田ぞ 色を増しけり 読んだ兵庫介は「毛利隆元公の急死を知って『枝葉も落ちて』と読める。毛利は木枯らしとなる中に、松田は雪後に色を増すという憎き返歌だと」と怒り、城攻めを開始した。 尼子軍に若林伯耆守の孫で若林宗八郎諸正、若林宗五郎諸行という兄弟がいた。兄は17歳、弟は15歳、どちらも顔立ちが美しく武勇にも優れていた。毛利軍が白鹿城へ攻撃を開始したとき、2人は最前線で戦うも戦功を挙げることができずにいた。戦況が不利となり帰城しようとしたところ、城の櫓の上にはその兄弟の母親が立っていた。「なぜ武功を1つも挙げずに帰ろうとするのか。その方らの祖父・伯耆守は鬼神のように恐れられた武人であったのに、その孫が敵の首1つも取らずに、また鎧武器に血も付けずに帰るとは勇も孝もあったものではない。その行いは父や祖父にはるかに劣るものである。もし不孝を改めたいと思うなら、今一度敵と当たって高名を挙げてきなさい」。母親の叱責に恥じた兄弟は、2・3百人ばかりの毛利軍へ2人で突撃し、奮戦するも共に討死した。この話を聞いた人や見た人は「武士の家に生まれた母子の勇士はこう然るべし」と言って涙を流さない者はいなかった。また祖父・伯耆守が「鬼若林」と呼ばれていたので、比類なき武勇としてその2人を「孫鬼」と呼び称えた 。 永禄6年8月19日(1563年9月6日)、白鹿城に籠もる尼子軍の日野甚太夫孝貞は、城内から1人進み出ると「敵方に誰か鉄砲の名人はいないか。試しに自ら具足をこしらえてみた。誰かこの鎧に鉄砲の弾を当てることができる者はいないか」と言って毛利軍を挑発した。毛利軍の将兵は「数万の寄手の中でもし外したら恥だ」と思い誰も名乗り出なかったが、少しして備後勢の中かから誰とは言わないが1人進み出ると、3尺7・8寸(114cm~117cm)ばかりの鉄砲を孝貞に向け、つっと立った。これを見て孝貞はカラカラと笑い「宛先はど真ん中ぞ」と言って胸板をほとほとと叩き撃たれるのを待った。距離は1町(約100m)ばかりあったため、玉は孝貞の上を通り後ろの防牌(矢盾)の板に当たった。孝貞はカラカラと笑い「引き金を引くときに強く手を押さえて引いたため銃口が上向いた。今少し下げて放て」と言ったが、撃った男はそれを本当とは思わず、さらに少し上げて再び撃った。そのため、玉は先ほどより更に一尺(約30cm)ばかり孝貞の上を越えていった。これに怒った孝貞は「人の志を虚しくする人物である。某の胸板を射るのでなくこれを射てみよ」と言って草摺を持上げて尻を出すと、尻を叩いて城内へ帰っていった。これには敵も味方も大いに嘲り、備後勢も「那須与一が扇を射た時とはかくも違うものよ」と言って声を上げて笑った。 この白鹿城の戦いの軍忠状が現代まで残っており、これによると戦いの主体が銃撃戦になっていることが分かる。特に10月10日、11日の戦闘では、吉川軍の戦死者5名を除く戦傷の原因は、鉄砲傷が73%を占め、矢傷13%、礫傷11%、切り傷2%を大きく上回っている。 毛利軍は白鹿城を攻める際、石州銀山の塩屋豊前守に命じて数百人の銀堀衆をそろえさせ、城内へ向かって坑道を掘り進めていた。対して城内の尼子軍もそれを察知し、対抗して城中から坑道を掘り進め毛利軍の侵入を阻止しようとした。永禄6年9月11日(1563年9月28日)、毛利軍の穴掘衆、山県四郎右衛門、朝枝市允、佐伯太郎右衛門、小谷新允らが穴を掘り進めるなか、なにやら物音が聞こえるかと思うや否や、土がドカッと崩れ同じく穴を掘っていた尼子軍と鉢合わせとなった。尼子軍より久村久左衛門、大道作介、乃木五郎兵衛らが槍をもって突きかかると、対する毛利軍は吉川彦次郎、小谷源五郎、三須孫兵衛、山県宗右衛門らが進み出て戦った。しかしながら穴の中は狭く戦いにくかったため、やがて両軍は撤退し、そのうち尼子軍は掘った穴に大石・小石を投げ入れて塞いでしまった。 また、尼子軍と毛利軍の坑道内の戦いは別の場所でも行われていた。そこでは両軍10名による一騎討ちの戦いが行われた。しかしながら、結局この戦いも決着には至らずに両軍は撤退する。そしてこれも尼子軍が大石・小石を投げ入れて穴を塞いでしまい、それ以降、毛利軍と尼子軍が坑道内で戦うことはなかった。 坑道内の一騎討ち十番勝負番号毛利軍尼子軍勝負の結果1番安芸の福間彦右衛門元明 身白大蔵 元明が大蔵を討ち取る 2番備後の粟屋彦右衛門就光 松田大炊介 決着つかず 3番備後の粟屋弥四郎元綱 伯州の山尾刑部丞 決着つかず 4番安芸の児玉四郎右衛門就政 隠岐の森川平 決着つかず 5番安芸の井上雅楽允 出雲の湯原小次郎 決着つかず 6番安芸の波多野源兵衛 不明 源兵衛が討ち取る 7番安芸の三戸小三郎 雲州の村井兵庫介助盛 小三郎が傷を負って引く 8番安芸の井上豊後守 石州の原佐助信綱 両者手負いとなり引く 9番安芸の赤川木工允 雲州の小野木三郎 三郎が膝を突かれて引く 10番備後の粟屋新三郎 雲州の山口平次 新三郎が平次を討ち取る
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