補論:警察官の帯刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 14:17 UTC 版)
岡崎久彦は、長崎事件の解決に際し清国は日本政府に対して、日本の警察官が今後帯刀することを禁ずべしという要求を突き付け、これを飲ませることに成功したとする。 『長崎県警察史』は異なる経緯を記す。1883年(明治16年)以降、それまで、警部以上が帯剣し、一般巡査は「手棒」を携帯していたのを改め、巡査全員が帯剣することになった。しかし、同年9月の清国人のアヘン吸引検挙事件をきっかけとして、翌々11月、外国人居留地を所管する警察署に限り、巡査の帯剣を廃して代わりに再び「官棒」を携帯するよう通達が出た。長崎・梅香崎・長崎水上の3警察署に巡査の帯剣が復活したのは、日清戦争開戦後の1894年(明治27年)8月であった。長崎事件の発生時、一般巡査は帯剣していなかった。8月15日の夜、つぎのような場面が見られた。 「 急報に接した梅香崎警察署長小野木源次郎は、直ちに清国領事館に報告し、鎮撫方を要求すると同時に、巡査数名を現場に急行させたが、広馬場町四つ角で数百の水兵に包囲攻撃されて、殴打され、蹴られ、斬り付けられ悉く負傷した。清国領事館からも館員二名が駈けつけて制止したが効果はなかった。そこで吉田警部補は巡査をまとめて一旦本署に引揚げ、巡査一同に帯剣を許した。帯剣のことについては、先年外国水兵と警察官との間で言葉の行違いから争闘を引起こし、巡査が抜剣したことがあったので、外国側から抗議を受け、帯剣を廃して警棒を持たせていたのであった。 」 一般警察官の軽装備が、事件の発生と、早期鎮圧が叶わなかった要因となっていたことを窺わせる。
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