補説1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 04:36 UTC 版)
「日本の大規模古墳一覧」の記事における「補説1」の解説
古墳時代における日本列島の首長墓・王墓は、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳など同時代の同一地域において多様な墳形が並存しており、その点で同じ時代の朝鮮半島の首長墓・王墓とは著しい対照をなしている。 上に掲げた37基の古墳の形状は、すべて前方後円墳である。 広瀬和雄によれば、おおむね前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順に優位性をあらわす墳形秩序をもっていたとしており、このことより、上記の墳丘長200メートルを超える大規模な前方後円墳は「大王級の首長の墓」とみなされていたことがわかる。全長200メートル超の古墳の分布は、岡山県の2基、群馬県、京都府の各1基の計5基を除くとすべて大阪・奈良の2府県に集中しており、大阪府下では太田茶臼山古墳(第20位)が令制の摂津国に属するほかは、すべて河内国・和泉国に分布する。すなわち、大阪平野のなかでも大和川流域の南部に濃密な分布傾向を示している。 前方後円墳は、3世紀中葉の日本列島で生まれた古墳形式である。3世紀から7世紀初頭にいたるまで、約5,200基造営されたといわれるが、前方後円墳の特質として広瀬和雄は、全体における可視性、形状における画一性、墳丘規模における階層性の3点を掲げている。 なかでも、大仙古墳と誉田御廟山古墳は、中国の秦代における始皇帝陵(中華人民共和国陝西省西安市郊外)と並んで世界最大規模を有する陵墓である。朝鮮半島最大の古墳が、5世紀代後半の新羅の双円墳皇南大塚古墳(大韓民国慶州市)であり、その墳丘長が約120メートルであることからも、日本列島で造営された古墳がいかに大規模なものが多かったかがわかる。そのいっぽうで、広瀬の指摘した前方後円墳の規模の階層性を考慮すると、古墳時代の日本では、規模それ自体が重要な政治的意味を有していたと推定できる。
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