月山富田城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 20:00 UTC 版)
月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。
注釈
- ^ 『大内義隆記』異本、『房顕記』、『中国治乱記』は「出雲浦」。『大内系図』は「八杉浦」とする。
- ^ 『太閤記』では泉州の堺[23]。
- ^ 『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする[29][25]。
- ^ 『陰徳太平記』では6・7箇所[25]
- ^ 『雲陽軍実記』では500[34]。『陰徳太平記』では300[35]。
- ^ 『雲陽軍実記』では1,000[34]。『陰徳太平記』では2,000[35]。
- ^ 太刀の鞘も外さず、火縄銃の火縄に火も渡さずという状態であった[34]。
- ^ 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば7月17日[36][37]。
- ^ 『陰徳太平記』では15城[38]
出典
- ^ 『陰徳太平記』『雲陽軍実記』によれば約40,000の兵で攻めたと記載。
- ^ 『雲陽軍実記』によれば大友軍は約45,000の兵で攻めたと記載。対する尼子軍は約15,000兵で迎え撃ったと記載(『陰徳太平記』による)。
- ^ 『大内義隆記』
- ^ 『大内義隆記』異本
- ^ 彼らが戦死した場所が、現在の島根県大田市温泉津町小浜の七騎坂といわれる。
- ^ 11月初旬には宍道まで兵を進めていたが、この時に元就は、本城常光とその一族を誅殺するように吉川元春に命じた(理由については、本城常光の項を参照)。しかし、このことを知った元尼子側諸将らが再び毛利氏から尼子氏側へと寝返ったため、洗合に本陣を据えるのが12月になった。
- ^ 『陰徳太平記』は約2,500、『雲陽軍実記』は約2,000の兵と記載。
- ^ 『陰徳太平記』は約15,000の兵と記載。
- ^ 守備兵が城内からも外に向けて穴を掘り始め、鉢合わせした地下道の中で戦ったものの、最後には籠城側が穴を塞いだとされる。
- ^ 「雲陽軍実記」によれば、籠城側より元春の陣に最初の矢文が射られ、交互に次の通りやりとりされたという。 「元就が 白髪(白鹿)の糸に 繋がれて 引くに引かれず 射るに射られず」「年経れば 白鹿の糸も 破れ果て 毛利(もり)の木陰の 露と朽ちなん」「安芸の毛利 枝葉も落ちて 木枯らしの 中に松田ぞ(城主の松田氏を表す) 色を増しける」(隆元の死を風刺している)「尼の子の 命と頼む 白髪糸 いまぞ引き切る 安芸の元就」
- ^ 『陰徳太平記』『雲陽軍実記』ともに約13,000の兵と記載。
- ^ 『雲陽軍実記』は約20,000の兵と記載。
- ^ ただし、伯耆国の江美城が山伝いの間道を用いた補給線を持っており、これが攻略されたのは総攻撃後の8月である。
- ^ 『陰徳太平記』は約30,000の兵と記載。『雲陽軍実記』は約35,000の兵と記載。
- ^ 『陰徳太平記』『雲陽軍実記』ともに約10,000の兵と記載。
- ^ 『陰徳太平記』による。
- ^ (永禄11年)6月2日 内藤越後守 宛て 毛利元就・同輝元連署書状『閥閲録125』ほか。
- ^ (永禄11年)8月23日 赤穴右京亮 御陣所 毛利元就・同輝元連署書状『閥閲録37』。
- ^ (永禄12年)4月16日 毛利輝元 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書549』ほか。
- ^ (永禄12)5月1日 内藤新右衛門・同越後守 宛て 毛利輝元書状『閥閲録125』。
- ^ a b 『森脇覚書』「九州御陣之事」。
- ^ a b 尼子氏と戦国時代の鳥取 2010, p. 80.
- ^ 『太閤記』巻十九「鹿助尼子之貴族を求得し事」。
- ^ a b c d 『桂岌圓覚書』。
- ^ a b c d e 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」。
- ^ (永禄12年)4月28日 赤名右京亮 宛て 毛利輝元書状『閥閲録37』。
- ^ 元亀2年卯月5日 三沢左京亮 宛て 吉川元春起請文『三沢文書』。
- ^ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子氏家臣連署奉書『日御碕神社文書』。
- ^ a b c d 『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り、並びに旧交馳け集まり敵城を攻め落とす事」。
- ^ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子勝久寄進状『日御碕神社文書』。
- ^ (永禄12年)7月20日 湯原右京進 宛て 小早川隆景書状『閥閲録115ノ3』。
- ^ 『吉川家旧記五』。
- ^ 永禄12年7月19日 野村信濃入道 宛て 毛利元就書状『閥閲録123』ほか。
- ^ a b c d e f 『雲陽軍実記』第四巻「秋上伊織介富田敗軍 並びに山中鹿之助異見の事」。
- ^ a b c d 『陰徳太平記』巻第四十三「天野隆重方便敵事」。
- ^ a b c d e 『雲陽軍実記』第四巻「所々尼子蜂起、並びに富田合戦の事」。
- ^ a b c 『陰徳太平記』巻第四十三「雲州富田麓合戦事」。
- ^ 『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」
- ^ 永禄12年7月28日 天野隆重・新藤就勝連署預ヶ状『折紙、竹矢家文書』。
- ^ 永禄12年9月27日 加儀太郎右衛門尉 宛て 天野隆重書状『閥閲録160』ほか。
- ^ (永禄12年)壬5月5日 南方宮内少輔 宛て 少輔十郎元秋書状『閥閲録47』ほか。
- ^ (永禄12年)6月7日 湯原平次 宛て 小早川隆景書状『閥閲録115-1』ほか。
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 560.
- ^ a b (永禄12年)10月28日 立花勤番・各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写『無尽集』。
- ^ (永禄12年)12月25日 山縣備後守 宛て 毛利輝元感状写『閥閲録遺漏2の4』。
- ^ (永禄12年)11月18日 天野隆重 宛て 小早川隆景書状『稲田文書』ほか。
- ^ 元亀4年10月2日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状写『閥閲録11ノ2』ほか。
- ^ (永禄12年)11月21日 秋月・毛利兵部少輔 宛て 田北鑑益書状『 無尽集』。
- ^ 永禄12年10月25日 舟越淡路守 宛て 毛利輝元書状『閥閲録159』。
- ^ 寛永12年1月11日 新屋山三郎 宛て 毛利秀就加冠状『閥閲録85』。
- ^ 永禄13年)1月5日 毛利輝元 宛て 吉川元春自筆書状『毛利家文書』。
- ^ (永禄13年)2月18日 赤名右京亮宛 毛利元就書状写『閥閲録37』ほか。
- ^ 『御答書』。
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 597.
- 1 月山富田城の戦いとは
- 2 月山富田城の戦いの概要
- 3 尼子再興軍による包囲
- 4 脚注
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書から月山富田城の戦いを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から月山富田城の戦いを検索
- 月山富田城の戦いのページへのリンク