毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻とは? わかりやすく解説

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毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)

布部山の戦い」の記事における「毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻」の解説

尼子氏滅ぼし中国地方をほぼ手中に収め毛利氏次なる目標定めたのは、北九州治め大友氏討伐であった永禄11年6月1568年7月)、元就伊予国出兵していた吉川元春小早川隆景両軍本国である安芸国帰還させると(毛利氏の伊予出兵)、同年8月に両将を北九州派遣し大友氏討伐開始する永禄12年4月1569年5月)には、元就居城である吉田郡山城発ち長門国向けて出陣する。そして同年5月長府に入ると、ここに本陣構えて大友氏討伐拠点とした(多々良浜の戦い)。このとき、元就出陣にあわせ山陰地方多く国人達にも九州への出兵命じられており、山陰地方毛利領の警備手薄となっていった。 一方滅亡した尼子氏であったが、尼子牢人中には一族再興目指す者がいた。その中心となった人物山中幸盛である。 永禄11年1568年)、幸盛は各地放浪した後に京へ上ると、京の東福寺で僧となっていた尼子氏一門尼子誠久遺児尼子勝久還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。そして各地尼子遺臣らを集結させると、密かに尼子家再興戦い企てていた。 永禄12年6月23日1569年8月6日)、毛利氏大友氏攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵機会うかがっていた幸盛ら尼子再興軍は出雲国侵攻開始する尼子再興軍は但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。勝久ら尼子再興軍がここで再興檄を飛ばすと、国内潜伏していた旧臣らが続々集結し5日の内に3,000余り軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略する続いて宍道湖北岸位置する末次島根県松江市末次町現在の松江城建設地。)に城を築いてここを拠点末次城)とすると、山陰地方各地合戦繰り広げつつ勢力拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。

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毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:43 UTC 版)

月山富田城の戦い」の記事における「毛利軍の九州侵攻、及び尼子再興軍の雲州侵攻」の解説

尼子氏滅ぼし中国地方をほぼ手中に収め毛利氏次なる目標定めたのは、北九州治め大友氏討伐であった永禄11年6月1568年7月)、元就伊予国出兵していた吉川元春小早川隆景両軍本国である安芸国帰還させると(毛利氏の伊予出兵)、同年8月に両将を北九州派遣し大友氏討伐開始する永禄12年4月1569年5月)には、元就居城である吉田郡山城発ち長門国向けて出陣する。そして同年5月長府に入ると、ここに本陣構えて大友氏討伐拠点とした(多々良浜の戦い)。このとき、元就出陣にあわせ山陰地方多く国人達にも九州への出兵命じられており、山陰地方毛利領の警備手薄となっていった。 一方滅亡した尼子氏であったが、尼子牢人中には一族再興目指す者がいた。その中心となった人物山中幸盛である。永禄11年1568年)、幸盛は各地放浪した後に京へ上ると、京の東福寺で僧となっていた尼子氏一門尼子誠久遺児尼子勝久還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。そして各地尼子遺臣らを集結させると、密かに尼子家再興戦い企てていた。 永禄12年6月23日1569年8月6日)、毛利氏大友氏攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵機会うかがっていた幸盛ら尼子再興軍は出雲国侵攻開始する尼子再興軍は但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。勝久ら尼子再興軍がここで再興檄を飛ばすと、国内潜伏していた旧臣らが続々集結し5日の内に3,000余り軍勢になったという。 そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、続いて宍道湖北岸位置する末次島根県松江市末次町現在の松江城建設地。)に城を築いてここを拠点末次城)とした(尼子再興軍の雲州侵攻)。

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