毛利軍の九州撤退
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永禄12年閏5月3日(1569年6月17日)、毛利氏は大友氏との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため軍を動かすことができないでいた。毛利氏の立場が厳しくなってくるのはこの頃からである。 同年7月下旬(9月中旬)、出雲において「在々所々の者共、残す所無く彼牢人(尼子再興軍)に同意候」と月山富田城の城主・天野隆重が書状で伝えるように、出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。さらに10月11日(11月19日)には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り、その翌日には周防国の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した(大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。 ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日(11月23日)、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐等わずかな兵を残して撤退を開始し、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。11月21日(12月28日)には城に残っていた宗勝らも退却し、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退した。
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